三 公訴権濫用論と「事実上の非犯罪化」

(一) 公訴権濫用論について

 公訴権濫用論は、一九六〇年代から、活発に主張されはじめた理論である。その定義は論者によってまちまちだが、さしあたって、ある一定の状況でなされた公訴提起について「検察官は公訴権を濫用したものであるから公訴提起は違法・無効であり、実体裁判ではなく、形式裁判で訴訟を打ち切」るべき(*44)とする主張と定義することができる。公訴権の濫用として形式裁判を導く事態としては、1)嫌疑が不十分な起訴、2)起訴猶予すべき事情がある場合の起訴、3)違法な捜査方法によってもたらされた起訴の三つの類型に分けて論じるのが一般的であり(*45)、当初は公訴権濫用論に否定的な見解も存在したものの(*46)、やがて、少なくとも第 2類型と第 3類型についてはこれを肯定する考えが圧倒的に有力となった(*47)

 「事実上の非犯罪化」との関係でこれを論じる本稿では、第 2類型が検討の対象となる。第 2類型につき、どのような理論構成によって形式裁判を導くのかについては、様々な主張がなされた。代表的な見解の一つとして、起訴猶予すべき事情の不存在を訴訟条件の一般的な性質論に結びつけ、既存の訴訟条件論の一適用場面として処理する見解がある(*48)。しかし、既存の訴訟条件論への解消を志向するアプローチでは、それ自体は訴訟条件の内実を膨らませるための試みであるにしても、「従来から訴訟条件とされている事由を満たしていても、なお不当起訴といえる場合があるのではないか」という問題意識が不明確になるおそれがある。そこで、むしろ、既存の訴訟条件とは一線を画した非類型的訴訟条件を創造しようとする主張であることを強調し、公訴権の行使に対する司法の審査権限に、その基礎を求める見解が主張された(*49)。受訴裁判所が行う司法審査は、検察官の広範な訴追裁量に対する抑制手段が不十分であるという現行制度の瑕疵を補うための次善策として要請されるものと位置づけられることになる(*50)。このような理解に立ちつつ、すでに述べてきたような訴追裁量の広範な「事実上の非犯罪化」的機能をも視野に入れたとき、公訴権濫用論が、わが国の非犯罪化の実態に対する異議申し立てという側面を持っていたことがより明らかになるといえよう。

第 2類型の公訴権濫用論が具体的に対象とする事案としては、1)軽微な事案の起訴、2)検察官の悪意による刑事手続きの濫用、3)差別的訴追などが挙げられている(*51)。しかし、公訴権濫用論を「事実上の非犯罪化」との関わりで論じる場合には、すでに述べたような「事実上の非犯罪化」のデメリットと関連付けた整理をすることが有益であろう。つまり、様々な事案についてなされる公訴権濫用論の主張が、a)個々の検察官による裁量権の行使が、一般に適用されている事件処理の規準から逸脱していることに対する批判なのか、それとも、b)検察官が用いる訴追裁量規準そのものが、国民の一般的な規範意識に照らして合理性を欠いていることに対する批判なのかが重要な意味をもつ。そして、現実に法廷においてなされた公訴権濫用論の主眼は、a)起訴猶予基準からの逸脱よりも、むしろb)起訴猶予基準そのものに対する弾劾にあったとの指摘があるが(*52)、これは、わが国において警戒すべき「事実上の非犯罪化」のデメリットが後者であるという認識と一致する。そして、前述のように、検察官の官僚的な統率が右のデメリットを増幅させる危険があるとすれば、それは政治的な立場や社会階層的な地位に基づく対立を念頭に置く場合に、最も顕著となるだろう。公訴権濫用論の背景に「政治観の対立」や「経済的生活基盤の差異がもたらした階級的対立」が存在する(*53)ということがしばしば指摘されるのは、公訴権濫用論の主眼とするところが、右のような「事実上の非犯罪化」によることの、わが国におけるデメリットと無関係ではないことの表れであるといえよう。

(二) チッソ補償交渉事件の検討

 一九八〇年代になると、公訴権濫用論は急速に沈静化に向かう。労働・公安事件の去就をめぐって、法廷で両当事者が鋭く対峙する局面が減少していくなどの時代背景もあるだろう。それでも、その最大の原因が、チッソ補償交渉事件で最高裁が行った、極めて制限的な判示(*54)にあることに疑いはない。しかし、公訴権濫用論のリーディング・ケースとされる右決定も、結論として公訴棄却判決を維持したという点からは、むしろ特異なケースとさえいえる。このことは、「事実上の非犯罪化」の視点から公訴権濫用論を眺める本稿の立場からは、とりわけ重要な意味を持つのである。

 チッソ補償交渉事件は、水俣病公害の被害者が加害企業に対して公害に対する補償を求める自主交渉の過程で発生した傷害事件であった。弁護人の主張は次のような点を中心とする(*55)。1)加害企業であるチッソに対する訴追が遅れたのに対して、水俣病被害者と支援者に対しては弾圧的で厳格な訴追がなされたことは、憲法一四条に反し、2)「被害者の救済と加害者に対する制裁」という公害法の原理に反した違法な訴追権の行使である(*56)。また、 3行政が規制を怠ったことも水俣病の原因であることから、行政権力は犯罪性を帯びており、被害者的地位にある本件被告人に対する訴追は許されない(*57)。このように、弁護人の主張では、当時、未曾有の公害事件であった水俣病を背景にした事件であるという、本件事案に特有の事情が中核に据えられており、被告人・被害者・検察官・公害加害企業などの関係者を、水俣病公害という大きな社会的な紛争という枠の中に、それぞれ位置づけて論じていることに特徴がある。

 最高裁は、これを第 2類型の公訴権濫用論、なかでも差別的訴追についての主張としてとらえている(*58)。しかし、本件は、従来の差別的訴追の議論が念頭に置いてきた事案とは、様々な面で異なっている(*59)。弁護人の意見において比較の対象として挙示されている公害加害企業や従業員の行為は、本件被告人の行為とは、罪種や犯罪の態様も異なるし、比較すべき事件の間に一〇数年の時間的な「ずれ」がある(*60)。もちろん対向関係や共犯関係にあるわけでもない。控訴審はこの点について、本件は「立体的、巨視的な観点に立って比較考量することを要する場合」であると表現した(*61)。しかし、弁護人の主張を、「立体的、巨視的」な観察方法を従来の公訴権濫用論に持ち込むものとしてのみ理解すれば、最高裁のいうように、罪種の類似性がなく時間的・空間的にもかけ離れた種々の事件についての「公訴権の発動の状況との対比などを理由に」することは、「他の被疑事件についての公訴権の発動の当否を軽々に論定する」かのごとき印象を与えてしまい、公訴権の濫用を理由に公訴棄却を導くことには消極的とならざるをえない。

 本決定の事案が抱える問題点は、公訴権濫用論の枠組みでは対処できないものであったというべきであろう。弁護人が本件の処理に際して実体的な基準として用いるべく主張しているのは、「被害者救済、加害者制裁」を内容とする「公害法の原理」である。これは一見単純ではあるが、ここから個々の事案をどのように扱うべきかを導こうとすれば、極めて微妙で複雑な価値判断を経由しなければならない。また、そのような「公害法の原理」をめぐる議論は、少なくとも本件が起訴された一九七〇年代前半においては、極めて先端的な問題であり、その内実をはっきりと確立しえてはいなかったというべきではないだろうか。そうだとすると、本件事案の「事実上の非犯罪化」の当否について、国民の側の規範意識が十分に固まっていたともいいがたい。訴追裁量基準の合理性を国民の規範意識に照らして検証するという従来の公訴権濫用論の課題設定自体が成り立たないのである。さらに、「公害法の原理」に照らした判断に際しては、当該犯罪事実に関するものに限らず、水俣病公害とそれに関わる社会的な紛議についての様々な事情を考慮する必要があり、「立体的、巨視的」観察方法は、むしろ必須のものとなるだろう。しかし、実際に時間的・資源的に限定された検察官の事件処理に、そのような大局的な考慮までをも要求することには、無理があったというべきではなかろうか(*62)。「事実上の非犯罪化」の適否について、検察官が第一次的な判断を行うことを前提とし、その判断内容に批判・修正を加えるという、従前の公訴権濫用論の枠組みによっては、弁護人の主張の核心を事件の帰趨に反映させることは不可能だといえよう。

 他方、最高裁は、本件の特殊な事件経過、チッソ株式会社と患者側の社会的紛争の決着、被告人が水俣病公害により受けた被害などを考慮して、刑訴法四一一条を適用せず、原審の公訴棄却判決を維持した(*63)。判決のいう「特殊な事件経過」が何を意味するのかは分かりにくいが、本件が水俣病公害に関わる社会的紛争の一過程であるということが強く意識されていることは疑いない(*64)。「公害法の原理」という言葉こそ用いないものの、実質的には弁護人が公訴棄却の理由として主張したことの核心が、ここで判断されているといってよい。未曾有の公害事件に関わる社会的紛争の一過程であるという本件の特殊な事情への考慮から、本件事案の事実上の非犯罪化の必要性について積極的な評価が下されたのである。

 このように、チッソ補償交渉事件最高裁決定では、「事実上の非犯罪化」を行うか否かの判断に、1)複雑な価値判断を必要とし、2)それまで十分に議論されてこなかった斬新な問題が関係しており、それゆえ3)当該犯罪事実を超えて様々な事情の考慮を必要とする事案については、訴追裁量の非犯罪化的機能に本来的に期待しにくいケースであるため、検察官の判断を前提に、その批判・修正を求めるという従前の公訴権濫用論の枠組みでは対処できないことが示された。しかし同時に、そのような事案の中にも「事実上の非犯罪化」が必要とされる場合があることを、公訴棄却判決を維持した最高裁決定の結論が、明らかにしているといえよう。

(三) 「事実上の非犯罪化」の今日的な課題

 右でみたとおり、チッソ補償交渉事件最高裁決定では、刑訴法四一一条の解釈による解決が図られた。しかしこれは、最高裁のみが、しかも控訴審が公訴権濫用論により公訴棄却判決をしたという偶然の事情に依拠してのみ利用しえた手段に過ぎない。チッソ補償交渉事件が希有な事案であることは否定できないが、社会関係の複雑化、価値の多様化などが指摘される状況の中では、そのような例外的事態に対して、より一般的な局面で利用可能な「安全弁」を用意する必要がある。そしてそれは、従前の公訴権濫用論の枠組みを離れ、訴追裁量による非犯罪化が期待しえない一定の事案について、裁判所が「事実上の非犯罪化」の当否についての第一次的な判断を行うことを予定した理論でなければならない。

  第一次的な判断の主体を裁判所へ移すべきとの主張は、次のような事情からも要請されるところである。固定化・一般化した国民の規範意識の存在を前提にできない局面においては、事案を処理する基準と国民の規範意識との適合性を検証するのではなく、むしろ、「事実上の非犯罪化」の適否が判断される過程そのものの民主的な統制を問題とする必要がある。そして、判断過程への民主的統制の及びやすさという視点からは、対立当事者である被告人が弁護人の支援のもとで積極的に関与することができ、手続きの法定や裁判の公開によって国民からの可視性が担保されていることなどから、公判段階で裁判所によって判断がなされるほうが、検察官の事件処理の場で判断されるよりも望ましいように思われる(*65)

 また、捜査の構造や、検察官の地位に関する現行法の理解との関係も重要である。右のような事案ついての判断を訴追裁量の中で行おうとすると、検察官は、事案の社会的背景にいたる詳細な資料を幅広く収集する必要がある。そうすると、資料収集のための捜査手続きは長大化、肥大化せざるをえないし(*66)、判断権を持つ検察官に司法官に類する過大な中立性を要求することとなるだろう(*67)。しかし、中立性の過大な要求は、裁判所と検察官の分離を徹底させた現行法の趣旨にそぐわない(*68)。いわゆる訴訟的捜査構造論によるとしても(*69)、結果としては、検察官に旧法の予審と類似した機能を負わせることとなり、捜査の長大化・糾問化を招来してしまうだろう(*70)

 このような視点から訴追裁量の機能に限界を認めようという問題提起は、現行法の制定以降、一貫して主張されてきたところでもある。旧法下における起訴猶予は、起訴を「猶予」する間に、情状に関する事実の調査を行い、また同時に、被疑者に対する保護観察を行うことにより特別予防効果をあげることを、中心的な機能としていた。検察実務では、現行法の下でも、起訴猶予において特別予防的考慮を強調する傾向にある(*71)。しかし、広汎な訴追裁量が現行法にも残存したことを、右で述べたような現行法の構造上の変化と調和的に理解するためには、現行法における起訴猶予は、特別予防的な刑事政策処分という意味合いを薄めて(*72)、一般予防的視点から処罰の必要性の乏しい事案を手続きから外すものとして理解すべきであるという主張が、有力に展開されてきた(*73)。現行刑訴法二四八条に「犯罪の軽重」の文言が新たに加えられたことは、その表れだとされる(*74)

 起訴前手続きの弾劾化や公判手続きの活性化が、今日なお、課題として残されていることはいうまでもないが、この課題の設定に積極的な評価を与える以上、訴追裁量が「事実上の非犯罪化」を果たしうる領域を制限的に解する方向性は、避けられないものであるといえよう。ましてや、複雑な社会的背景にまで考慮を及ぼすべき事態においてまで、それを検察官の負担とすることの有害性は、強く意識されなければならない。

 さらに近時では、刑事制度の目的を一般予防と特別予防、すなわち「犯罪の統制」に限定してとらえること自体の妥当性が問われ始めている。たとえば、一つの有効な視点として、刑事制度を「抗争処理」の過程としてとらえる立場がある(*75)。そこでいう「抗争処理」とは、ある行為をめぐって、それを行おうとする人とその行為から生じる被害から守られたい人との間に生じる社会的な「抗争関係」を適切に処理することを指す(*76)。社会的抗争関係を終結させる手段は刑罰に限られないので、社会的抗争関係の消滅が「事実上の非犯罪化」を要請する場合が考えられる(*77)。そして、この場合は、当該犯罪行為や行為者の事情を超えて、また、行為後はもちろん起訴後の事情をも含めた、様々な社会的な事実関係を判断の中に取り込むことが必要となるであろう。このような、近時における刑事制度の目的観の変容が、積極的な評価を与えられるとすれば、「事実上の非犯罪化」の当否をめぐる第一次的な判断が公判段階に移されるべき領域があることが、より強く自覚されなければならないだろう。






(44) 松尾浩也・鈴木茂嗣編『刑事訴訟法を学ぶ』一七八頁〔三井誠〕(有斐閣、新版、一九九三年)
(45) たとえば、田宮裕『刑事訴訟法』二二二頁(有斐閣、一九九二年)など。
(46) 反対説に立つものとして、竹村照雄「公訴権濫用論と公判審理における問題点」法律のひろば二一巻四号一四頁以下(一九六八年)、岡村泰孝「公訴権の運用」司法研修所論集四四号一頁以下(一九七〇年)、河上和雄「公訴権濫用論に対する批判的検討−その理論的・実務的な問題点を指摘する−」Law School五号三二頁(一九七九年)、書上由紀夫「労働刑事事件と公訴権濫用論」警察学論集三二巻二号八七頁以下(一九七九年)。いずれも検察官(当時)によって書かれたものである。
(47) 第 1類型については、否定説もなお有力である。平野龍一『刑事訴訟法の基礎理論』四九頁(日本評論社、一九六四年)、同「刑事訴訟における実体判決請求権説−いわゆる修正された糺問捜査をめぐって−」兼子博士還暦記念『裁判法の諸問題 下』一四七−五〇頁(一九七〇年)、松尾浩也「公訴権について」『刑事訴訟の原理』二九三頁以下(東大出版会、一九七四年)〔初出・裁判所書記官研修所報二二号(一九七二年)〕、光藤景皎『口述刑事訴訟法 上』一九三頁(成文堂、一九八七年)、松本一郎「公訴権濫用論」松尾浩也・井上正仁編『刑事訴訟法の争点(新版)』一二五頁(有斐閣、一九九一年)、三井・前掲注(44)一九三頁など。
(48) 井戸田侃「訴訟条件の機能と内容」『刑事手続の構造序説』一〇六−七頁(有斐閣、一九七一年)〔初出・立命館法学六二号(一九六五年)〕、同『公訴権濫用論』一〇二−一〇頁(学陽書房、一九七八年)、同「いわゆる公訴権濫用論の射程範囲」吉川経夫先生古稀記念『刑事法学の歴史と課題』三七二−五頁(法律文化社、一九九四年)、同「公訴権の濫用 私の歩んできた道」法律時報六七巻二号六九−七〇頁(一九九五年)。
(49) 田宮裕「訴追裁量のコントロール−公訴権の濫用について−」立教法学一一号一六六−七四八頁(一九六九年)。
(50) 田宮・前掲注(49)一七七頁。
(51) 田宮・前掲注(49)一七八−八五頁。ただし、検察官の準司法官的性質を認める見解によれば、これらに加えて、違法捜査に基づく起訴も第 2類型の一場面とされる。松尾浩也「ウィップラッシュ傷害事件(再論)」前掲書注(47)『刑事訴訟の原理』三二八頁〔初出・警察研究三九巻二号(一九六八年)〕、岡部泰昌「刑事手続における検察官の客観義務(三)」金沢法学一三巻二号一〇〇頁(一九六八年)、同「起訴前手続における違法と公訴の効力」刑法雑誌一六巻二=四号二五九−六〇頁(一九六九年)。なお、井戸田侃「捜査手続の違法と公訴提起の効力」『刑事手続構造論の展開』一一六−二一頁(有斐閣、一九八二年)〔初出・立命館法学一〇五=六号(一九七三年)〕。
(52) 三井誠「検察官の起訴猶予裁量(一)−その歴史的および実証的研究−」法学協会雑誌八七巻九=一〇号三頁(一九七〇年)、庭山英雄「高田事件判決と公訴権濫用論」一橋論叢七一巻一号二六頁(一九七四年)。
(53) 石川才顯「公訴権の差別的運用と平等保護原則の展開」『刑事手続と人権』一六九頁(日本評論社、一九八六年)〔初出・刑法雑誌一六巻二=四号(一九六八年)〕。
(54) 最決昭和五五・一二・一七刑集三四巻七号六七二頁〔六七六頁〕。
(55) 控訴審までの主張については、川本裁判資料集編集委員会編『水俣病自主交渉川本裁判資料集』(現代ジャーナリズム出版会、一九八一年)を参照。また、鈴木茂嗣「公訴権の濫用と可罰性の理論−チッソ水俣病川本事件控訴審判決をめぐって−」判例タイムズ三五四号三三−四頁(一九七八年)。
(56) 錦織・前掲注(3)一九頁。
(57) 後藤・前掲注(4)五二−四頁。
(58) 刑集三四巻七号六七六頁。
(59) 寺崎嘉博『訴訟条件論の再構成』一四六頁(成文堂、一九九四年)&ル護人が、意図的に「公訴棄却論」の語を用いたことにも象徴される。錦織・前掲注(3)二三頁、後藤・前掲注(4)五〇頁。
(60) 『最高裁判所判例解説刑事編・昭和五五年度』四二八頁〔渡部保夫〕(法曹会、一九八五年)。
(61) 東京高判昭和五二・六・一四高刑集三〇巻三号三六六頁。
(62) 現に、この事件を起訴した検察官は、第一審での証人尋問で、そのような事情を考慮していなかった旨の証言をしている。川本裁判資料集編集委員会編・前掲書注(55)四七五頁。
(63) 刑集三四巻七号六七七頁。
(64) 渡部・前掲注(60)四三五頁は、「原判示の諸事情のうち本決定が是認しないとした部分を除くその余の大半をカバーするもの」とする。
(65) 裁判官に対する民主的統制を論じたものとして、所一彦「裁判の民主的統制と独立」『刑事政策の基礎理論』二七九頁(大成出版社、一九九四年)〔初出・法社会学二六号(一九七三年)〕。所教授は、チッソ補償交渉事件最高裁決定の「大岡裁き」は、制定法による拘束による官僚型の統制を中心とするわが国の裁判制度の中にあって、最高裁だけが唯一、政治モデルの統制に服していることから来る「特権」であるとする。所一彦「社会統制、自由、法の支配」犯罪社会学研究一九号一五頁(一九九四年)。しかし、これを「最高裁の特権」にとどめてしまうならば、結局のところ、裁判官以上に官僚型の民主的統制への依存度が高いはずの検察官に、事件の帰趨を委ねる領域が広がっていくということを、見落とすべきではないし、これを回避するための解釈論上の努力を放棄すべきでもないだろう。
(66) 田宮・前掲注(49)一六二頁、三井誠「検察官による訴追決定−とくに起訴猶予裁量をめぐって−」川島武宜編『法社会学講座6・紛争解決と法2』三〇五頁(岩波書店、一九七二年)、平野龍一「判決前調査」『犯罪者処遇法の諸問題』六三頁(有斐閣、増補版、一九八二年)。なお、横井大三「起訴便宜主義」熊谷弘・佐々木史郎ほか編『公判法体系I公訴』八五頁(日本評論社、一九七四年)。
(67) 岡部泰昌「刑事手続における検察官の客観義務(一)」金沢法学一一巻二号一〇〇頁(一九六六年)。なお、松尾浩也「西ドイツ刑事司法における検察官の地位」法学協会雑誌八四巻一〇号二八頁(一九六七年)。
(68) 田宮・前掲注(49)一六八頁、同「当事者主義訴訟のあゆみと課題」『刑事手続とその運用』三一六頁(有斐閣、一九九〇年)〔初出・裁判所書記官研修所報二八号(一九七八年)〕、小田中・前掲書注(41)三二四頁〔初出・川島武宜編『法社会学講座8』(一九七三年)〕、川崎英明「検察官の客観義務」松尾・井上編・前掲注(47)書二九頁。
(69) 井戸田・前掲注(48)「訴訟条件の機能と内容」九四頁、同「捜査の構造」前掲書注(51)『刑事手続構造論の展開』二六−七頁〔初出・判例タイムズ二九六号(一九七三年)〕、同『刑事訴訟法要説』二四−三〇頁(有斐閣、一九九三年)、石川才顯「批判的捜査概念論序説」法学紀要八巻五五−六一頁(一九六六年)、同「捜査手続の意義とその理論構造」『捜査における弁護の機能』一六−三〇頁(日本評論社、一九九三年)。
(70) 田宮裕「捜査の構造−捜査の弾劾化とその方策−」『捜査の構造』二〇−一頁(有斐閣、一九七一年)〔初出・刑法雑誌一五巻三=四号(一九六八年)〕、同・前掲注(45)五一頁、松尾浩也「捜査の構造について」前掲書注(47)『刑事訴訟の原理』二六一頁〔初出・刑法雑誌一五巻三=四号(一九六八年)〕、小田中聰樹「捜査の構造」前掲書注(42)『刑事訴訟と人権の理論』一一一−三頁〔初出・佐々木史朗ほか編『刑事訴訟法の理論と実務』(一九八〇年)〕、三井誠『刑事手続法(1)』一七八−九頁(有斐閣、補訂版、一九九五年)〔初出・法学  教室一五七号(一九九三年)〕。
(71) 三井・前掲注(39)四一−五頁、百瀬武雄「起訴猶予と執行猶予の間」罪と罰二五巻二号一五頁(一九八八年)、田代則春「起訴猶予制度の今日的課題(二)−開かれた起訴猶予制度への若干の提案」警察研究六〇巻四号三二頁(一九八九年)、司法研修所検察教官室編『検察講義案』一四一頁(法曹会、一九九三年)。
(72) 田宮・前掲注(49)一六四頁、平野・前掲注(66)六四頁。
(73) 以上について、三井誠「起訴猶予裁量」宮澤浩一ほか編『刑事政策講座 第一巻 総論』三一〇頁(成文堂、一九七一年)、同「検察官の起訴猶予裁量(一)−その訴訟法的および比較法制的考察−」神戸法学雑誌二一巻一=二号三二−八頁(一九七一年)、同・前掲注(66)二九六−三〇〇頁。
(74) 小野清一郎『刑事訴訟法概論』一八五−六頁(法文社、第六版、一九五七年)、松尾浩也・三井誠「西ドイツ刑事司法における起訴法定主義」ジュリスト三八九号五八頁(一九六八年)、三井誠「検察官の起訴猶予裁量(三)−その歴史的および実証的研究−」法学協会雑誌九一巻九号四四頁(一九七四年)。なお、田宮裕編著『刑事訴訟法I』〔佐藤勲平〕四五五頁(有斐閣、一九七五年)。
(75) 所一彦「「抗争処理」学としての犯罪学」犯罪社会学研究1三六頁(一九七六年)。吉岡一男「刑罰の犯罪処理機能」前掲注書(34)『刑事制度の基本理念を求めて』二〇八頁〔初出・平場還暦『現代の刑事法学(下)』(一九七七年)〕も、これに近い。
(76) なお、「刑事上の和解」による事件処理の可能性なども含め、刑事手続きにおける被害者の地位や役割を検討する必要性が指摘される近時の研究動向も、刑事制度の抗争処理的な理解と同一の方向性を持つといえよう。後述の「手続打切り」との連携を明確に示唆するものとして、川口浩一「加害者と被害者の和解−成人の刑事手続への導入可能性」奈良法学会雑誌六巻四号五二頁(一九九三年)。
(77)チッソ補償交渉事件最高裁決定が、四一一条を適用しない理由に、チッソ株式会社と患者側の社会的紛争の決着を挙げていたことが想起される。





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