二 訴追裁量の非犯罪化的機能

(一) 非犯罪化とは

 一九五七年にイギリスで出されたウルフェンドン報告書(Wolfenden Report)をめぐる、いわゆるハート・デブリン論争の影響を受けて、一九六〇年代にはアメリカにおいても、非犯罪化論(decriminalization)が活発な議論の対象となった。堕胎、同性間性行為、薬物嗜癖を「被害者なき犯罪」(crimes without victims)として括り、それらの非犯罪化を求めたシャー(Edwin M. Schur)の主張(*10)を先駆けとして、非犯罪化の主張は、酩酊、賭博、近親婚、重婚、猥褻文書に関する犯罪などに対象を拡大していく(*11)。アメリカ法律家協会の一九六二年の模範刑法典は、同意した成人間の同性間性行為、売春、私通の非犯罪化を提示し(*12)、一九六七年に出された刑事司法の運営に関する大統領諮問委員会(The President's Commission on Law Enforcement andadministration of justice) の報告書は(*13)、少年犯罪を中心にディヴァージョンの活用を提唱し、また酩酊については犯罪とすべきでないとした。こうした非犯罪化論の隆盛は、アメリカ社会における伝統的な権威の絶対的な妥当性が揺らぎはじめたことの反映であったともいわれるが(*14)、より現実的には、1)当該行為の性質から刑罰に十分な効果が期待できないこと、2)当該行為を検挙・処罰の対象とすることによって、より重大な犯罪に用いるべき警察や司法の資源が奪われてしまうこと、3)結果として不法な利益を求める組織を保護することになってしまうこと(*15)、4)取締りに際して権限の濫用が生じやすいことなどの事情に起因するところが大きい(*16)。アメリカにおける非犯罪化論の問題提起は、一九七〇年代以降、連邦や各州の立法において、いくつかの犯罪類型について実現をみることとなるが(*17)、そこでは、前述の模範刑法典や大統領諮問委員会による提言が、指導的な役割を果たしたことはいうまでもない。

このように、わが国に大きなインパクトを与えたとされるアメリカにおける非犯罪化論は、刑法上犯罪とされてきた特定の行為類型を、法改正によって刑法の規制対象から除外しようとする主張であった。そこで、「非犯罪化」の語義を最も狭くとらえるときには、このような立法上の動向のみを対象として論じることとなる。しかし、今日では、立法によって文字通り犯罪のカタログから除外される場合に限らず、裁判所が当該刑罰法規の解釈を変更したり、違憲無効であると判断したりすることによって、従来犯罪であるとされていた行為が、犯罪を構成しないとされるようになる場合(司法上の非犯罪化)、また、犯罪として規定されているにもかかわらず法執行機関の介入が行われないため、事実上、当該行為が処罰されなくなっている場合(事実上の非犯罪化)などを含めて考える見解が一般的であろう(*18)。本稿も通説にならって、処罰を回避するための様々な手段を包括的に視野に入れ、それらを総括するものとして、「非犯罪化」の語を緩やかな意味で用いることとする。

(二) わが国における非犯罪化論と訴追裁量の機能

 欧米における非犯罪化論の動きは、わが国にもいち早く伝えられた。しかし、わが国では、欧米のような刑法の改正に結実するような形での非犯罪化が活発に論じられたとはいいがたい(*19)。一九六〇年代を中心とした刑法の全面改正作業に際しては、活発な議論が展開されたが、改正作業の基本方針がむしろ処罰強化の方向を向いていたので、非犯罪化の主張はこれに対する「防御的主張」(*20)という形で展開され、草案の立法化を阻止するという消極的な作用を果たすに過ぎなかった。

 しかし、わが国の刑事法制と非犯罪化との関わりを知るには、そのような立法の動向のみではなく、刑罰法規の適用の実際にまで視野を広げる必要がある。たとえば、アメリカにおいて非犯罪化論が対象とした犯罪類型についてみると、医師による同意堕胎については、正当化事由を定めた優生保護法一四条一項四号の「身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれ」を広く解することにより、実質的には、堕胎行為の非犯罪化が達成されている(*21)。賭博及び富くじに関する罪についても、検挙件数は著しい減少の傾向にある(*22)。賭博行為の実数自体が減少しているとの指摘もあるが(*23)、捜査機関が暴力団の資金源になる等の特定の事情を伴う場合でなければ検挙の対象としないことも有力な原因であろう(*24)

 わが国において、捜査・訴追機関による選別的な対応が、組織的かつ大量に行われている代表的な領域としては、軽微な財産犯や交通関係事犯が挙げられる。窃盗、横領などの財産犯は刑法犯認知件数の七割近くを占める日常的な犯罪であり(*25)、その全てを扱うのでは司法機関の物理的な能力の限界を超えてしまう。しかも、その財産犯の多くが法定刑に罰金を設けていないため、有罪とされた行為者が受けるダメージは大きい。そこで、たとえば万引きについては、捜査機関が積極的に発見に努めることは少なく、店主等からの通報があった場合に限って、それに対応する形で捜査が開始されている(*26)。また、被害額僅少で軽微な窃盗、詐欺、横領、盗品等に関する罪の事件で、被害の回復が行われ、被害者が処罰を希望せず、再犯のおそれのないものは、検察官によって微罪処分(刑訴法二四六条但書、犯罪捜査規範一九八条)の対象として指定されるのが通常であり(*27)、その多くが警察段階で刑事手続きから解放される(*28)。送検に至った場合でも起訴猶予とされるものが少なくない(*29)。交通関係事犯について、訴追機関による組織的な対応が行われた例としては、一九八七年から東京高検管内を皮切りに行われ一九九〇年までに全国に広がった、業務上過失致死傷の起訴基準の見直しが挙げられる(*30)。交通関係業過事件の起訴率は、一九八九年には七二.八%であったが、翌年から急速に減少を続け、一九九四年では一五.七%にまで至っている(*31)

 このように、わが国では、捜査・訴追機関に与えられた広範な裁量権の行使を通じて、「事実上の非犯罪化」が広い範囲で行われてきた(*32)。社会状況や国民の規範意識の変化に柔軟に対応し、処罰の対象として相応しくないものを手続きから離脱させる機能を担うシステムが存在していることこそ、わが国の刑事司法の特徴の一つであり、その運用の過程を非犯罪化の「日本型の実践方法」と位置づけることができよう。

(三) 「事実上の非犯罪化」のデメリットとわが国の問題状況

 非犯罪化を立法によらずに行う場合、次のようなデメリットが指摘されてきた。まず、1)担い手に幅広い裁量を認めることとなるので、個別の事案の処理につき、判断が恣意的に行われる危険がある。また、2)立法とは異なり、民主的な基礎づけの過程を経ないため、いかなる行為を非犯罪化すべきかの判断が、国民の規範意識から乖離しがちである(*33)。さらに、3)事実上の非犯罪化が刑罰に代替する何らかの処分を伴う場合には、a)公的機関が介入する領域が、かえって拡大すること、b)代替処分の過程の適正さを担保するしくみがないこと、c)代替処分による介入が新たなラベリングの契機となり、ラベリング回避という当初予定した機能を果たしえないこと、d)コストの大きさに比して特別予防効果が上がらないことなどが、特にアメリカにおけるディヴァージョン・プログラムの経験に基づいて主張されている(*34)

 これらのうち、3)代替処分に伴うとされる弊害については、わが国の事実上の非犯罪化に際しては、担当係官による訓戒や環境の調整などが行われているものの(*35)、いわゆるディヴァージョン・プログラムにおける代替処分と比べると、行為者や行為者の生活環境への介入は低いレベルにとどまっているので、代替処分の適正さの担保や代替処分による新たなラベリングの問題は起こりにくい(*36)。むしろ、それらの弊害の自覚が、積極的介入への志向を抑止してきたという面もあるだろう(*37)。介入する対象の拡大の問題は、微罪処分について問題とされてはいるが(*38)、高度に積極的な介入を伴うディヴァージョン・プログラムのそれとでは、問題の深刻さに自ずと違いがある。コストに対する特別予防効果の低さについても、行為者への介入にかけるコストがさほど大きくないことからすれば同様のことがいえる。

 これに対して、1)裁量権の恣意的行使の危険、2)民意からの乖離の危険は、わが国においては、より深刻な問題となるはずである。わが国の法制は、裁量権の行使について、恣意的な判断を抑制・是正し、民意を反映させるための制度的な基礎づけを持たない。わずかに、訴追裁量権の消極的方向での行使について、検察審査会による審査と勧告(検察審査会法)、告訴人、告発人による裁判所に対する付審判の請求(刑訴法二六二条以下)が用意されているに過ぎず、積極的方向での裁量権行使に対しては、例えば大陪審や予備審問のような、それを是正するための常態的な制度は用意されていない。

 ところが、わが国では、一般に、1)裁量権の恣意的な行使の危険は少ないとされている。起訴するか起訴猶予とするかの決定は、実務上の慣行として一定の内部規準に基づいて行われているのが実態である(*39)。さらに、部が置かれている検察庁では副部長と部長、その他の検察庁では次席検事と検事正、区検においては上席検察官の決裁を経なければならない(*40)。したがって、個々の事件処理にあたって検察官個人の思惑や政治的志向が作用する余地はほとんど存在しないであろう。なお、警察段階での裁量についても、事実上の内部的規準の存在は推測できるし、いわゆる積極方向での逸脱に対しては検察段階でのスクリーンに期待できる。

 しかし、訴追裁量の基準の安定性は、2)国民の規範意識を運用に的確に反映させるという課題とは無関係である(*41)。そればかりか、むしろ組織的な統率が生み出す検察官の官僚的な性質によって、国民の規範意識と検察組織が用いる訴追裁量規準との乖離がもたらされるという危険性さえ指摘されている(*42)。わが国の「事実上の非犯罪化」を論じるにあたっては、「安定的に運用される訴追裁量の基準が、国民の規範意識を的確に吸収しえているかどうか」という視座からの点検こそが重要であるといえよう(*43)





(10) EDWIN. M. SCHUR, CRIMES WITHOUT VICTIMS; DEVIANT BEHAVIOR AND PUBLIC POLICY;ABORTION,HOMOSEXUALITY,DRUG,ADDICTION(1965).
(11) Sanford H. Kadish, The Crisis of Overcriminalization 374 ANNALS 157 (1967). Jerome H. Skolnick,Coercion to Virtue; The Enforcement of Morals, 41 S.CAL.L.REV. 588(1968). HERBERT L. PACKER, THE LIMITS OF THE CRIMINAL SANCTION 364-366 (1968).
(12) MODEL PENAL CODE §§251.2, 213.2 (Proposed Official Draft 1962).私的な道徳に介入しないという立場から、売春については、商業的な形態のものに限って犯罪とした。また、いわゆる"sodomy"については、成人間の同意のある場合を含まない形で規定している。
(13) THE CHALLENGE OF CRIME IN FREE SOCIETY, A REPORT BY THE PRESIDENT'S COMMISSION ON LAW ENFORCEMENT 82, 236 (1967).なお、邦訳として、法務総合研究所研究部資料第二一−三集『自由社会における犯罪の挑戦(一)−(三)』(法務省、一九六八年)がある。
(14) 田宮裕「比較法的研究−アメリカ」平場安治・平野龍一編『刑法改正の研究I概論・総則』一六〇頁(東大出版会、一九七二年)。
(15) 藤本哲也「犯罪学的視点よりするディクリミナリゼイションの問題」法学新報八二巻一〇=一二号一二頁、一五頁(一九七六年)。
(16) 以上につき、田宮・前掲注(14)一六〇−一頁、平田紳「告訴人のいない犯罪の非犯罪化論」福岡大学法学論叢三一巻二=四号一三八−四一頁(一九八七年)。
(17) 田宮・前掲注(14)一六一頁以下、吉岡一男「合衆国における非犯罪化の動向」法学論叢一〇二巻五=六号一七〇頁以下(一九七八年)。
(18) 森下忠「非犯罪化をめぐる海外の動向」『犯罪者処遇論の課題』二二三−四頁(成文堂、一九八八年)〔初出・ジュリスト五九五号(一九七五年)〕、平田紳「軽微犯罪・行政犯の非犯罪化と非刑罰化」福岡大学法学論叢三一巻二=四号二二七−三一頁(一九八七年)など。なお、非犯罪化の概念については、他に、岩井弘融ほか編『犯罪観の研究−現代社会の犯罪化・非犯罪化−』〔西村春夫〕三頁(大成出版社、一九七九年)、藤本哲也『刑事政策あらかると』三九頁(法学書院、増補版、一九九五年)〔初出・菊田幸一・西村春夫編『犯罪・非行と人間社会』(一九八二年)〕。
(19) なお、その理由の一つとして、欧米における非犯罪化論が対象とした行為のうち、反自然的性行為、自殺、売春について、わが国の刑法がもとより処罰対象としていないことが挙げられる。平野龍一「家庭および性道徳に対する罪」『刑法の基礎』一八三−四頁(東大出版会、一九六六年)〔初出・刑法雑誌一四巻一号(一九六五年)〕。
(20) 田宮裕「非犯罪化(ディクリミナリゼイション)について」時の法令八〇三=八〇九号一〇七頁(一九七三年)。具体的な主張の例としては、中山研一「犯罪論−各論」平場・平野編・前掲書注(14)五六頁以下。
(21) 法務省「検察統計年報」によれば、一九八五年から一九九三四の一〇年間で  検察庁が受理した被疑者人員の合計は一三人に過ぎず、そのうち公訴提起されたのは同意堕胎致死傷の一人のみである。なお、優生保護法は、本来戦後間もない時期の劣悪な経済状況下で多発した堕胎や嬰児殺に対処するための立法であり、今日のような状況を招来する意図をもって作られたわけではないので、これを  「立法による非犯罪化」とらえるべきではない。
(22) 一九九四年における検挙件数は、七七六件に過ぎない。法務省法務総合研究所編「犯罪白書」平成七年版四一二頁。
(23) 土屋眞一編『昭和の刑事政策』〔池田茂穂〕五五頁(立花書房、一九九一年)。
(24) 一九九四年に賭博罪検挙人員中に占める暴力団関係者の比率は、五九.五%に上る。前掲注(22)一八八頁。また、一〇〇%を超える(検挙件数に前年に認知されたものを含むため)高い検挙率が、捜査機関による選別的な検挙の実態を表す。同四〇八頁。
(25) 前掲注(22)五頁。
(26) 村山眞維『警邏警察の研究』二四六−七頁(成文堂、一九九〇年)。
(27) 警察庁刑事局編『逐条解説 犯罪捜査規範』二四四頁(東京法令出版、改定四刷、一九八〇年)、荒川雅行「ディヴァージョンと刑法に関する一考察−警察における微罪処分を中心として−」法と政治三八巻三号一頁四三五−七頁(一九八七年)。なお、軽微な単純賭博もまた、微罪処分の対象事件に指定されることが多い。
(28) たとえば、一九九四年に窃盗罪で検挙された人員のうち、微罪処分と少年の簡易送致で処理された人員が占める割合は、四七.二%であり、非侵入盗に限れば六一.〇%に上る。警察庁「平成六年の犯罪」一六〇頁の数値より算出。
(29) 特に、横領の起訴猶予率は、一九九四年では八二.一%であり、交通関係業過を除く刑法犯全体の三八.三%と比べて高い。前掲注(22)四二五頁。
(30) この間の事情については、米田泰邦「交通事故の可罰的評価−手続的非犯罪化の展開−」『機能的刑法と過失』七三−四頁(成文堂、一九九四年)〔初出・例タイムズ六六三号(一九八八年)〕、同「手続的可罰評価と非犯罪化−交通刑法の転機を迎えて−」同書九六頁〔初出・高田古稀『刑事訴訟の現代的動向』(一九九一年)〕。
(31) 数値は、各年の法務総合研究所「犯罪白書」による。起訴基準を変更した理由については、「交通犯罪の現状と対策」を特集した平成五年版・二四九−二五一頁に詳しい。
(32)ただし、「被害者なき犯罪」である薬物犯罪に対しては、一貫して厳格な取締りと処罰が求められており、世論の支持もあるといえる。岩井ほか編・前掲書注(18)二七二−八四頁〔矢島正見〕、吉岡一男『刑事政策の基本問題』二五三頁(成文堂、一九九〇年)。また、一九六八年より実施された交通反則通告制度(道交法一二五条以下)は、立法による非犯罪化が大規模に行われた唯一の例である。反則金納付という代替処分を必要としたこと、対象となる犯罪が圧倒的に大量であることなどから、立法による対応が不可欠だったといえよう。
(33) 平野龍一「社会の変化と刑法各則の改正」平場・平野編・前掲書注(14)一七頁、井上正仁「犯罪の非刑罰的処理−「ディヴァージョン」の観念を手懸りにして−」『岩波講座・基本法学8紛争』四〇六頁、四三一−二頁(岩波書店、一九八三年)。
(34) 井上・前掲注(33)四〇三−六頁、四三三頁、松尾浩也「ディヴァージョン(diversion)について−アメリカ刑事司法の最近の動向−」平場安治博士還暦祝賀『現代の刑事法学(下)』三三頁(有斐閣、一九七七年)、吉岡一男「ディヴァージョン(diversion)について」『刑事制度の基本理念を求めて』二八四頁(成文堂、一九八四年)〔初出・松尾浩也編『刑事訴訟法の争点』(一九七九年)〕)、前田忠弘「ディバージョンに関する一考察−アメリカ合衆国における議論を中心として−」愛媛法学会雑誌一六巻三号一七−二三頁(一九九〇年)。
(35) たとえば、微罪処分に際して捜査機関は、被疑者を訓戒する、被疑者を監督すべき者に必要な注意を与えて請書を徴する、被害の回復、謝罪などを講ずるように被疑者を諭すなどの処置をとる(犯罪捜査規範第二〇〇条)。
(36) 交通反則通告制度については、反則金の納付という、罰金刑と類似した実態を持つ強度の代替的介入手段が用意されている。したがって、例えば介入過程の適正さの確保などが深刻な問題とされるのである。井上・前掲注(33)四一二頁、吉岡・前掲注(34)二八六頁など。
(37) 昭和三六年から横浜地検などで実施された執行猶予者に対する特別補導措置に対しては、これらの見地からの批判が加えられ、やがて衰退した。三井誠「検察官の起訴猶予裁量(五・完)−その歴史的および実証的研究−」法学協会雑誌九四巻六号一三九頁(一九七七年)。
(38) 吉岡・前掲書注(32)一三三頁、荒川・前掲注(27)四四〇頁。
(39) 三井誠「検察官の起訴猶予裁量(四)−その歴史的および実証的研究−」法学協会雑誌九一巻一二号四〇−一頁(一九七四年)。
(40) 研究会「公訴権の運用をめぐって」判例タイムズ三五四号五〇頁〔河上和雄発言〕(一九七八年)。なお、検察庁法七−一四条参照。
(41) 小田中聰樹『現代刑事訴訟法論』三二一頁(勁草書房、一九七七年)〔初出・川島武宜編『法社会学講座8』(一九七三年)〕。
(42) 小田中聰樹「検察の民主化と検察審査会」『刑事訴訟と人権の理論』三一七頁(日本評論社、一九八三年)〔初出・法律時報五〇巻九号(一九七九年)〕、同「検察の民主化と検察官の良心」同書一九一頁〔初出・法学セミナー増刊『日本の検察』(一九八一年)〕。
(43) もっとも、起訴便宜主義が、今日に至るまで国民の恒常的な批判にさらされることなく維持されてきたことに照らせば、訴追裁量基準と国民の規範意識の同一性について、国民の側からの信頼がおおむね確保されているとはいえるのかもしれない。青柳文雄ほか『註釈刑事訴訟法 第二巻』三四四頁(立花書房、一九七六年)。しかし、不当な人権制約を防止する機能への信頼というよりは、処罰からの解放を「お上」の寛容ととらえる伝統的な法意識の所産であるとの指摘もある。田宮裕「刑事政策と法曹の役割」『刑事手続とデュー・プロセス』二七六頁(有斐閣、一九七二年)〔初出・宮澤浩一ほか編『刑事政策講座第一巻』(一九七一年)〕。





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