四 手続打切りへの展望

 さて、以上では「事実上の非犯罪化」の観点から公訴権濫用論の限界を指摘してきた。しかし他方で、近年では、かつて公訴権濫用論が扱った問題領域を、新たな視点から構成しなおそうとする動きがある。そこで次に、近年の理論状況を概観し、それらが右で論じてきた「事実上の非犯罪化」の今日的な課題とどのような関係にあるのかを検討してみたい。

(一) 公訴取消義務違反論

 まず、公訴提起後の事情変更による訴追の妥当性の消滅という事態に対応するために、検察官が公訴取消の義務を負うべき場合を論じようという見解がある。これは、公訴提起のみならず公訴の取消しについても検察官の広い裁量が認められており、また、公訴の適法要件たる訴訟条件は公訴提起から手続きの終了まで一貫して存在する必要があることから、公訴権濫用論として論じられた訴追行為への審査と抑制は、手続きの進行過程を通じて継続的に行われなければならないことを自覚的に主張する立場である。したがって、公訴権濫用論と同一の理論構造に立ち、その応用により新たな問題状況に対応しようとするものといえる(*78)。公訴維持権の濫用論といってもよいだろう(*79)

 しかし、この見解は、公訴提起後の事情変更を視野に取り込むという意義はあるものの、その応用形態であるがゆえに、従前の公訴権濫用論の限界の多くを、そのまま持ち込んでしまうこととなる。まず、「事実上の非犯罪化」の適否についての判断が、第一次的には検察官によって行われることを前提にした理論であるから、検察官の訴追(維持)裁量には、その判断を期待できない、あるいは期待すべきでない場合を念頭に置いた本稿の問題意識には対応できない。また、起訴後の事情変更への対応を幅広く検察官に義務づけるとすれば、公訴提起後においても検察官の積極的な情報収集を許容する方向に傾く危険があるし、結果として、公判においてさえ当事者主義的性質が薄まってしまうことに繋がりかねない。このことは、検察官の公訴取消義務を導くために、いわゆる検察官の客観義務を媒介させる点にもよく表れている(*80)。しかし、検察官が公訴提起後に主体的な情報収集活動を行うことについては、公判中心主義の要請から、これを消極的に解するのが一般的であることはいうまでもない(*81)

(二) 公訴の抑制から手続きの打切りへ

 公訴取消義務を論じる見解が、公訴権濫用論の応用による解決を目指すものであったのに対し、近年では、これまでの公訴権濫用論の理論的な枠組みからは距離をおいた、「ポスト公訴権濫用論」や「再生」された公訴権濫用論を提唱しようとする見解が主張されている(*82)。こうした動きがもたらされた背景には、1)チッソ補償交渉事件最高裁決定が、公訴権濫用論の要件を厳格に絞ってしまったので、公訴権濫用論の名の下で論を進めても、裁判実務に対する影響力という意味では、先行きの見通しが失われているという現実的な考慮があったことは否定できない。また、2)迅速裁判違反に対する高田事件最高裁判決(*83)が、憲法的な基礎付けによって、直截的な手続きの打切りを宣言したことの影響もあるだろう。しかし、他方で、これらの見解が、公訴権濫用論の機能面にみられた限界が、その理論上の構造自体に起因するとの認識に基礎付けられていることは、ここでの問題意識にとって極めて重要である。そこで以下では、近年の代表的な学説を整理したうえで、すでに示した「事実上の非犯罪化」の今日的な課題との関わりについて検討していく。

 1)寺崎説 訴訟条件論を広く再構成することにより解決を導こうとするのが、寺崎教授の見解である。寺崎教授は、ドイツにおける訴訟条件論の発展の経緯に再分析を加え、ゴルトシュミットの二元的な法把握を批判したうえで、訴訟条件(免訴事由に限らない)の存否の判断も、実体形成と密接に関わるものであり、訴訟条件は公訴権論に解消されないとする(*84)。そうすると、訴訟条件を一面的に定義することは困難になるが、寺崎教授は、むしろ各手続き段階で訴訟条件の欠缺が発現する形態に注目し、実体形成との関わりの態様・密接の度合いから「公訴抑制機能」「実体審理阻止機能」「実体判決阻止機能」という訴訟条件の三つの機能を抽出し、個々の要件と法的効果を論じるべきだとする(*85)。そして、従来の公訴権濫用論は、公訴提起抑制に焦点を合わせたものだったため、(それらは形式裁判の本来の機能ではないにもかかわらず)被告人の早期解放や、検察官の公訴提起に対する「批判」が強調された(*86)。しかし、従来、公訴権濫用論の中で論じられてきたチッソ補償交渉事件や違法な捜査に基づく起訴、その他に非類型的訴訟条件事由として論じられる違法なおとり捜査や迅速裁判違反などは、その不当性を公訴提起行為の違法に転嫁ないし還元できない事案であり(*87)、むしろ「全体の法秩序からみて実体的訴訟関係の存立そのものが許容できない(=「訴訟そのもの」の不当性)」と判断されることにより、訴訟条件の実体判決阻止機能が働いて、実体判決を言い渡すことが許されず、形式裁判で終結させるべき事案として構成すべきであるとする(*88)。そして、「訴訟そのもの」の不当性の判断においては、「前訴訟的・訴訟外的」な価値判断に依拠する要因の考慮が許容されると考えるのである(*89)

 2)指宿説 指宿教授も、寺崎教授と同様に、これまでの公訴権濫用論が、本来は公訴権濫用論では処理しきれない事態までをも取り込んでしまってきたとの認識に立ち(*90)、狭い意味での公訴権の濫用のみならず、その他、実体法上の犯罪が認められる場合であっても処罰が適当でない様々な事態への対応を体系化・理論化した「手続打切り論」を提唱する。

 そこでは、ニューヨーク州法における「正義の増進のための手続打切り」制度(dismissal in furtherance of justice)と、その発展過程のそれぞれにおける手続打切り基準が参考にされる。そして、打切りの是非が争われた裁判例の分析を通して、右の「手続打切り」が、被告人の憲法上の権利の侵害と結びついた「救済の法理」のみならず、公益などの包括的な考慮によって判断される「政策の法理」にも基づいて運用される制度であることが明らかにされる(*91)。そして、わが国の公訴権濫用論が、政策的価値判断を内容とする問題領域に対応できないことから、わが国においても、ニューヨーク州におけるような「手続打切り」を、解釈論のレベルにおいても構築すべきであると主張するのである(*92)。すなわちそこでは、狭い意味での公訴権の濫用や、迅速裁判違反や差別的訴追などの憲法的な訴訟打切り事由のように、被告人の救済を目的とした要因のみならず、「司法的ディバージョン」の必要性をも含んだ刑事政策的観点による要因も、非類型的な手続打切り要因として、体系的に整理されることになる(*93)

 明文規定を持たないわが国において手続きの打切りを認める理論上の根拠として、司法による監督権が用いられる。司法を打切りの主体ととらえることに対しては、当事者主義に逆行するとの批判があるが(*94)、指宿説では、司法の監督権を中心に構成し、同時に被告人側にも打切りの申立て権を認めていくことによって、むしろ、司法が被告人の対等な当事者性を確保するために手続きをコントロールする機能を備えている、より目的的・機能的な当事者主義の実現が志向されている(*95)。さらに、司法の監督権自体は、わが国でも、証拠開示や迅速裁判違反の問題の解決に際して、すでに判例でも用いられた観念であることが強調される(*96)。また、ニューヨーク州で打切りを導く原理として用いられている「正義の原理」についても、刑訴法一条などにより、わが国の実定法上も解釈原理としても認められており(*97)、またチッソ補償交渉事件最高裁決定で、四一一条の解釈として「著しく正義に反する」かどうかについて示された判断は、ニューヨーク州法の打切り規定の考慮事項と共通する要素も多く(*98)、右の原理がわが国でも機能しうることを表すものであるとするのである(*99)

 3)松宮説 松宮教授は、非典型的刑罰消滅事由による実体法的な解決を提案する。公訴棄却事由・免訴事由には、手続きの遂行の不適切さを理由とするものばかりではなく、手続きの背後にある実体的刑罰請求権の不存在を理由とするものが含まれているとの認識を出発点に、この実体的刑罰請求権が失われる事由は、法定のものに限られず、刑罰の追求すべき目的から見て、当該行為の処罰が他の理由から目的が達成されたがゆえに、あるいは目的達成が不可能ないし困難であるがゆえに不相当である場合には、非典型的刑罰消滅事由を構成することがあるとする(*100)。具体的には、チッソ補償交渉事件最高裁決定での考慮事項などに示唆を得て、1)当該行為の違法・有責性が軽微、2)紛争が実質的に解決して処罰を求める被害者の意思が失われていること、3)行為から裁判までの時の経過、4)不当な差別的扱いがなされたとの印象があることなどを裁判所が総合的に判断して、有罪判決を回避すべき場合かどうかを決する(*101)。裁判の形式は、一般条項である刑訴法三三八条四号によるが(*102)、理論的には、あくまで科刑の適否という実体刑法上の問題として位置づけられる(*103)。したがって、明文にない刑罰消滅事由を理由として手続きを打ち切る裁判所の権限は、1)量刑につき専権を有していることとのアナロジーと(*104)、2)憲法七六条が認める司法権の包括性(*105)との二点から導かれている。

 以上、近時の代表的な学説を振り返ったが、これらはいずれも、1)訴追裁量の抑制を第一の目標とはせず、2)手続きを終了させるべきか否かの判断について、裁判官に第一次的な判断主体としての役割を期待するものであり、さらに、3)手続きを終了させるべきか否かの判断に、事件の社会的背景などの幅広い考慮事項を取り込もうとする点において、共通の方向性を持つ。そしてそれは、本稿が「事実上の非犯罪化」の今日的な課題として示してきたところと一致するものといえよう。

 もっとも、本稿が扱った「事実上の非犯罪化」の観点からみる場合にいえることとして、寺崎説にいう「訴追そのものの不当性」という概念は、「事実上の非犯罪化」という刑事政策的な視点からの判断をも含みうるのかどうか、明確でないように思われる。これに対して、「処罰の必要性・有効性」いう観点を正面に出す松宮説は、刑事政策的な考慮が可能であることが明快に示されているものとして高く評価できよう。しかしながら、いずれの見解も、迅速裁判違反や違法捜査に基づく起訴などの処理をも目指しており、幅広い射程を予定する理論であるから、各理論構成の妥当性については、「事実上の非犯罪化」以外の課題をも視野に入れたうえで検討されなければならない。松宮教授の見解では、たとえば違法捜査に基づく起訴などについてまでも、「処罰の有効性」という実体的な概念を媒介として処理することになるが、そうすると、被告人への権利侵害に対する救済の必要性を手続きの帰趨に直截的に反映させえず、指宿教授のいう「救済の法理」に基づく打切りが機能しうる範囲を狭めることにつながりはしないだろうか。松宮説にいう「処罰の必要性・有効性が失われる場合」は、むしろ指宿説が提案する、より包括的な「手続打切り論」における打切り事由の一つとして、体系上の地位を与えておくのが妥当であるように思う。逆に、「手続打切り論」にとっては、それが多彩な領域をカバーしようとするがゆえに、わが国において認められる打切り事由の明確化・具体化が最大の課題となるが、他の明文規定やチッソ補償交渉事件最高裁決定における考慮要因の分析から、処罰の必要性・有効性を失わしめる要因を抽出した松宮説は、「政策の法理」による打切り事由の具体化を進めるうえで、多くの示唆をもたらすものというべきであろう。

(三) 展望と課題

このように、濫用的な訴追の抑制から手続きの打切りへという、公訴権濫用論をめぐる近年の理論状況の変化は、それが、わが国における「事実上の非犯罪化」が抱える今日的な課題の解決に資するということからもその妥当性を基礎付けることができる。

 もちろん、「事実上の非犯罪化」の今日的な課題を乗り越える手段は、手続法的な解決に限られる必然性はなく、また、立法によって対応すべきとの立場もありうる。しかし、実体法解釈においては、行為後・起訴後の事情を事案の処理に大胆に反映させるのは難しい(*106)。また、立法提案のうち、宣告猶予は、保護観察と密接に結びく特別予防のための制度という沿革をもつし(*107)、刑の一般的免除は、有罪宣告を伴うため、ラベリング回避という点で不十分であろう(*108)。立法によって手続打切りの制度を創設すれば、硬直的な現状に対するもっとも明瞭かつ大胆な変化が期待できることは、いうまでもない。しかし、立法がなされるまでの間、こと被告人の利益を守る方向では、現行法の解釈の枠内で妥当な結論を導く努力がなされるべきであるし(*109)、判例における打切り事例の集積を待ったのち、それらの中からあるべき規範を汲み取ることによって、個別的・具体的な打切り要件を立法することが容易になるという展開にも期待すべきであろう(*110)

 もっとも、他方で、「手続き打切り論」が解釈論上の主張であるとはいえ、それが今日の裁判実務を前提にした場合になお、裁判例において容易に受容されうる理論であるかというと、決して楽観は許されないといわざるをえない(*111)。とりわけ、本稿のように、訴追最良の非犯罪化の機能の限界を認め、手続きに占める起訴前段階の比重の増大を押し止める必要があるとの認識から、濫用的訴追の抑制から手続きの打切りへという理論動向の妥当性を基礎付けようとするならば、検察官の幅広い権能が日本の刑事司法の特色を形成している現状、すなわち「精密司法」「検察官司法」と呼ばれる現状とは相容れない立場であり、裁判実務の現実的な受容の可能性に乏しい議論であるとの批判が予想できる。そして、確かに「精密司法」「検察官司法」を所与のものとする限りでは、右の批判の妥当性を否定し去ることはできないだろう。この意味で、「手続き打切り論」は、解釈論のレベルで展開されることによって裁判実務の過程を通して実現されていく可能性を確保してはいるものの、右で述べた今日における刑事司法の「日本的特色」を動かしがたい前提ととらえてその枠内での改善を志向するものではなく、「日本的特色」そのものに対する改革提言(*112)という性質をもつ主張であることを自覚せざるをえない。そして、改革論議としての実践的な意義を意識するとすれば、実現に向けての段階的なプロセスとして、実務の受容性がより高い次善策による改善をも視野に入れるべきである。司法の監督権の発動のあり方として、手続きの打切りがドラスティックに過ぎるというのであれば、たとえば、訴因変更命令に類似した、形成効をもたない「公訴取消命令」を行うことなどが考えられてもよいだろう(*113)

 手続打切り論は、多様な打切り原因を一つの理論の下で体系化しようという提案ではあるが、具体的な適用のレベルにおいては、むしろ、個々の事由について打切りを導く直接的な動機に違いがあることを認めるべきであるとの主張を含んでいる。権利濫用的な公訴提起も打切り事由の一つとすることができるので、従来の公訴権濫用論が機能する場面がまったくなくなってしまうわけではない(*114)。「非犯罪化の解釈論的形態」として一括して論じられてきた事態のうち、いかなる事案が公訴権濫用論からの離脱を図るべき場合にあたるのかを見きわめることが重要なのである。「濫用的訴追の抑制」とは区別された、「政策の法理」による打切り事由の個別化・具体化こそが今後の課題だといえる。本稿で試みた、わが国の訴追裁量による「事実上の非犯罪化」の実態に立ち戻っての分析は、この課題の解決にとって必要かつ有効なアプローチとなるであろう。





(78) 井戸田・前掲書注(48)『公訴権濫用論』一三一−二頁、同・前掲書注(69)『刑事訴訟法要説』一三二頁、米田泰邦「可罰的違法性をめぐる実体法的、手続法的問題」前掲書注(9)七〇頁〔初出・判例タイムズ三二五号(一九七五年)〕。
(79) 研究会・前掲注(40)七六頁〔松尾浩也発言〕。
(80) 米田・前掲注(79)七一頁。
(81) もっとも、公訴権濫用論の射程が公訴提起後の事情変更についても及ぶことを早い時期から強調した論者である井戸田教授も、公訴提起後の捜査活動については消極的に解する。井戸田侃「被告人に対する取調べは許されるか、その根拠はどうか」前掲注書(51)『刑事手続構造論の展開』五一頁〔初出・ジュリスト五五三号(一九七四年)〕。
(82) これらの先駆けとなった主張として、鈴木・前掲注(55)四五頁。また、同「公訴権濫用について」書記官研修所報三〇号一七一頁(一九八〇年)、同『刑事訴訟法の基本問題』一〇六頁(成文堂、一九八八年)。
(83) 最大判昭和四七・一二・一〇刑集二六巻一〇号六三一頁。
(84) 寺崎・前掲注(60)二六頁。
(85) 寺崎・同前三四四頁。
(86) 寺崎・同前一六四頁。
(87) 寺崎・同前三五一頁。
(88) 寺崎・同前三四六頁。
(89) 寺崎・同前三六三頁。
(90) 指宿・前掲注(7)七頁。
(91) 指宿・同前一八一−六頁。
(92) 指宿・同前二七七頁。
(93) 指宿・同前三七〇−二頁。
(94) たとえば、田宮裕「形式裁判の体系」佐々木史朗ほか編『刑事訴訟法の理論と実務』二二〇頁(判例タイムズ社、一九八〇年)など。
(95) 指宿・前掲注(7)二九七−八・三〇四頁。
(96) 指宿・同前三〇五−六頁。「監督権」という用語を用いるか否かは重要でなく、司法の廉潔性を維持して公衆の信頼を確保するために手続き自信がもつ自己防衛機能が、日本の司法権に内在されていると理解しうることが重視されるのである。同「手続打切り論序説−司法の正統性、正義の増進、そして手続打切り」 刑法雑誌三五巻一号四〇頁(一九九五年)
(97) 指宿・前掲注(7)三六四頁。
(98) 指宿・同前三六二−三頁。
(99) なお、手続打切りにかかる「基本的な正義」の普遍性について、指宿信「諸外国に広がる手続打切りの法理−ポスト『公訴権濫用論』への一視点−」ジュリスト一〇一七号一四四頁以下(一九九三年)参照。
(100) 松宮孝明「『公訴権濫用』と『処罰不相当』−『非典型的刑罰消滅事由』について−」立命館法学二二三=四号五一三頁(一九九二年)。
(101) 松宮・前掲注(100)五三二頁。
(102) 松宮・同前五四〇頁。公訴棄却事由を純粋に形式裁判事由と考える必要はないとの認識を前提にする。
(103) 松宮・同前五一四頁。
(104) 松宮・同前五四一頁。
(105) 松宮・同前五三五頁。
(106) 判例実務における実質的違法性阻却の判断の指標につき、前田雅英『可罰的違法性論の研究』五三一頁以下(東大出版会、一九八二年)。
(107) 繁田実造「猶予制度(二)」宮澤・西原ほか編・前掲書注(73)三一五頁、石原明ほか共著『改訂・刑事政策』一七〇−二頁〔森本益之〕(青林書院、一九八〇年)、平野龍一「執行猶予と宣告猶予」前掲書注(66)『犯罪者処遇法の諸問題』六頁。
(108) なお、刑の一般的免除とドイツにおける訴訟手続きの打切りとの関係につき、内藤謙「軽微犯罪と刑事裁判−立法論的考察−」中野次雄判事還暦祝賀『刑事裁判の課題』四五六頁(有斐閣、一九七二年)、平野・前掲注(107)二四頁。
(109) 刑事関係立法について、我が国の立法部の機動性の低さについては、しばしば指摘されるところでもある。亀山継夫「刑事関係立法過程はこのままでよいか」ジュリスト八五二号一六五頁以下(一九八六年)。
(110) 指宿教授が分析するニューヨーク州における打切り制度の発展経緯が示唆するところでもある。指宿・前掲書注(7)第一・二章参照。
(111) ただし、「救済の法理」に関する事例について、最決平成七・二・二八刑集四九巻二号四八一頁では、補足意見において、理論構成としては訴追裁量の逸脱を経由しない、直截的な手続きの打切りの可能性が示唆された。
(112) 小田中聰樹「刑事手続改革の課題」『現代司法と刑事訴訟の改革課題』三三〇頁以下(日本評論社、一九九五年)〔初出・内藤古稀『刑事法学の現代的状況』(一九九四年)〕など。
(113) 公訴取消しに関する立法提案として、指宿信「『公訴の取消』の再生」鹿児島大学法学論集二九巻一=二号二三三頁(一九九四年)。被告人にも公訴取消しの申立て権を認めるべきとする。なお、白取祐司「学界回顧・刑事訴訟法」法律時報六六巻一五四頁(一九九四年)。
(114) たとえば、形式的な訴追裁量基準が確率されているような類型の事件において、個々の検察官が基準から逸脱した起訴を行ったような場合には、従来の公訴権濫用論と同様の構成での異議申し立てが可能であろう。山口簡判平成二・一〇  ・二二判時一三六六号一五八頁の事案を参照。もっとも、同事案は、違法捜査に基づく起訴との複合的な性質をもつ。





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