論説:非犯罪化的機能からみた公訴権濫用論の限界
−濫用的訴追の抑制から手続きの打切りへ−

立教大学大学院法学研究15号167-197頁(1996年)



一 はじめに
二 訴追裁量の非犯罪化的機能
三 公訴権濫用論と「事実上の非犯罪化」
四 手続打切りへの展望



一 はじめに

 いわゆるチッソ補償交渉事件に対する昭和五五年一二月一七日最高裁第一小法廷決定(*1)は、公訴権濫用論の適否とその限界について、「検察官の裁量権の逸脱が公訴の提起を無効ならしめる場合のありうることを否定することはできないが、それはたとえば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合にかぎられるものというべきである。」との判断を示した。この決定に対しては、公訴権濫用論を最高裁が一般論として許容したことを長年の論争の到達点として評価しつつも、その要件があまりにも厳格に過ぎ、今後の事例での具体的な展開の芽が摘まれてしまったとしてこれを批判的にとりあげるのが、当時の学界が示した一般的な反応であったといえよう。判例の示すところを前提にした各論的な論議の発展を志向する立場も示されたものの(*2)、現実には、この決定を境にして、学説上も議論は沈静化の方向に向かったというほかない。

 しかし他方で、この決定は、「原判決を破棄して第一審判決の執行猶予付きの罰金刑を復活させなければ著しく正義に反するものとは認められない。」として、控訴審の公訴棄却判決を維持している。犯罪事実の存在を認めつつも有罪判決を回避したことを視野に入れて論じるとき、その評価はずっと複雑なものとなる。それは、この事件を担当した弁護人の間にも、「公訴棄却判決を得た」としてこれを好意的に評価する意見と(*3)、原判決の判断が否定されたことに対する批判的な意見(*4)との二通りが存在することにも象徴されている。そこで、より大局的な見地からは、被告人の救済と、公訴権濫用論の「濫用的」な主張に対する抑制とを両立させた「最高裁流大岡裁判」(*5)、「秀才判決」(*6)であるという見方もありうるだろう。しかし、最高裁がそのような深遠な配慮を行わざるをえなかったこの事案の持つ意義を、当該事件限りの評価に閉じ込めてしまうのは妥当でない。

 公訴権濫用論については、その「肥大化」が、しばしば指摘されている(*7)。文字どおり、検察官による「権利濫用」的な公訴権行使に対する非難の表明であった公訴権濫用論は、訴訟条件の当事者主義的な構成を媒介として、広範な訴追裁量へのコントロール手段としての役割を期待されるようになり、さらには「非犯罪化の解釈論的形態」(*8)、「手続的非犯罪化論」(*9)と呼ぶべき実態を具えるに至ったとされる。そして、この「有罪判決からの解放」という視点でとらえる限りでは、チッソ補償交渉事件の結論はその成功例にほかならないのである。

 本稿は、そのような、いわば「非犯罪化的機能」の側面に着目しながら、公訴権濫用論やチッソ補償交渉事件決定に対する再検討を行い、今日に残された課題を抽出することを目的とする。また、近時では、これまで公訴権濫用論が扱ってきた問題の処理につき、理論的な枠組み自体の再構成を迫る見解が主張されている。そこで、右の課題と、転換期を迎えつつあるといえる最近の理論状況との関係についても考察を加え、両者の架橋を試みたい。





(1) 最決昭和五五・一二・一七刑集三四巻七号六七二頁。
(2) 研究会「川本事件最高裁決定をめぐって」ジュリスト七三七号三六頁〔三井誠発言〕(一九八一年)、田宮裕『演習刑事訴訟法』一二四頁(有斐閣、一九八三年)など。
(3) 錦織淳「“開かずの扉”を開いたとき−初の公訴棄却判決を手にして」判例タイムズ四二八号一八頁以下(一九八一年)。
(4) 後藤孝典「川本事件最高裁決定の課題」ジュリスト七三七号四九頁以下(一九八一年)。なお、インタビュー「後藤孝典氏に聞く・犯罪に加担した政府は公訴提起できるか」季刊刑事弁護三号一七二頁(一九九五年)。
(5) 朝日新聞一九八〇年一二月一九日付朝刊。
(6) 田宮・前掲書注(2)一二三頁。
(7) 指宿信『刑事手続打切りの研究』五頁(日本評論社、一九九五年)。
(8) 田宮裕「公訴権の運用と裁判官」中野次雄判事還暦祝賀『刑事裁判の課題』八六頁(有斐閣、一九七二年)。
(9) 米田泰邦「実体法的、手続法的非犯罪化」『犯罪と可罰的評価』三八一頁(成文堂、一九八三年)〔初出・岩田傘寿『刑事裁判の諸問題』(一九八二年)〕。




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