判例研究:公訴権濫用論により公訴棄却した原判決を破棄した事例

広島高判平成3・10・31高裁刑事裁判速報集平成3年度128頁

立教大学大学院法学研究13号85-95頁(1993年)



〔事実の概要〕

被告人は、昭和六三年一月六日、山口市内の路上に軽四輪貨物自動車を停めたの ち、通行人に印判店の所在を尋ね、約一二〇メートル先の印判店まで小走りに往復 して三文判を求めた。車に戻ったところ、交通巡視員Aがおり、駐車違反である旨 を告げたので、被告人がこれに抗議し両者の間で問答となった。数分間のやりとり ののち、Aが被告人に対し初認時刻が一一時一〇分である旨を述べたので、被告人 は、自分の時計によれば現時刻が一一時二〇分であることを主張し、Aとのやりとりに要した時間を除けば駐車時間はわずか三、四分間であり、その程度の駐車で反 則切符を切られることには承服しかねるとして抗議したが、Aは時刻の確認をせず これを無視して検挙の手続を終了した。なお、交通巡視員A、Bの二名は原審公判 廷で、前に検挙した車から被告人車への移動中、一一時一〇分に被告人車を発見、 同車に接近する途中で運転者の不在を確認した旨を、また、Aは、一一時二〇分の 経過を自分の時計で確認して呼出状を貼付した後、被告人が戻ってきた旨を供述している。第一審である山口簡裁は、裁判所による検証の結果をふまえて、A・B両 名の供述の信用性を否定し、以下の様に判示した(山口簡裁平成二年一〇月二二日 判決・判例時報一三六六号一五八頁)。

「A、B両巡視員が正確な時刻を測定し、とくにAは被告人の言い分に多少でも 耳を傾けて時刻の確認をしていたのなら納得のいく公正な取締りができたのである。 ……山口警察署及び山口区検察庁においても、被告人は終始数分間駐車しただけだと弁明しているのに、前記のような交通巡視員の杜撰な取締結果を鵜呑みにして十 分な捜査を尽くすことなく送検、起訴している。本件取締りの昭和六三年一月六日 当時は駐車違反の検挙は現認時間を一〇分間確認し、一〇分に満たない違反者に対しては口頭警告にとどめていたことが認められる。道路交通法違反事件については、 公正な取締をすることはもちろん、画一的な処理がなされているところ、被告人は 終始数分間の駐車である旨の抗弁をしているのであり、捜査を充分尽くしていたな らば、本件は現場において交通巡視員による口頭警告にとどまり、送致または起訴 には至らなかった事案であると認められる。……本件取締、送致、及び起訴について被告人に対して特に差別的意図はなく、検察官に刑事訴訟法二四八条による起訴、不起訴の裁量の余地があるにしても、以上認定のとおり杜撰な捜査にもとづき、結 局は被告人に不公正な処罰を求めているものであり、いわゆる公訴権濫用の理論に もとづき同法三三八条四号に準じて、本件公訴を棄却することとする」。

これに対し、検察官が、1)被告人の駐車時間を約五分間と認定した点につき重大な事実の誤認があり、 2)右認定事実を前提にするとしても、公訴権濫用の理論を適 用して公訴を棄却したことは最高裁の確定した判例に違反しており、法令の適用を 誤ったものである、として申し立てた控訴に対する判断が本判決である。(なお、 本判決に対して被告人のみが上告したところ、平成四年四月八日最高裁第二小法廷 が決定によりこれを棄却したので、本判決の内容のまま確定している。)

〔判旨〕

控訴審は、まず、1)事実誤認の主張に対して、初認時刻及び駐車時間に関するA 供述の信用性に積極的な評価を与えたうえで「現認開始時刻を午前一一時一〇分こ ろとし、また、被告人車両の駐車時間を約一〇分間と認めることに関して証拠上こ とさら不合理な点は認められない」と述べ、加えて、被告人の供述の信用性に疑問 を呈し、「原判決の認定した駐車時間は証拠の評価として十分な根拠に乏しく、事 実を誤認したものという他はなく、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。」 と判示して、駐車時間を公訴事実どおりの一〇分間と認定した。

さらに、「念のため」として、2)法令適用の誤りの主張に応え、駐車時間が原審 認定のとおりであった場合に公訴権濫用論により公訴を棄却することの是非につい ても検討を加え、次のような仮定的判断を示した。「一般的にみても、駐車違反事 実に対して口頭による警告にとどめるか、検挙して立件するかの選別は、単に駐車 違反の時間のみならず、その違反場所、態様など様々な状況によって異ならざるを得ないものと考えられるが、そもそも、公訴権の発動については、犯罪の軽重のみならず、犯罪の情状等の諸般の事情をも考慮しなければならないことは刑事訴訟法 二四八条の示すとおりであり、起訴又は不起訴処分の当不当は、犯罪事実の客観的 側面だけによっては断定することができず、審判対象になっていない他事件につい ての公訴権の発動の状況との対比を理由にして本件公訴提起が著しく不当であるな どということはできないのであり(最高裁昭和五五年一二月一七日第一小法廷決定 ・刑集三四巻七号六七二頁参照)、また、このことが、憲法一四条に反するものでないことは明らかである。したがって、本件の場合に公訴権濫用の理論にもとづき 刑事訴訟法三三八条四号に準じて本件公訴を棄却した原判決は、法令の解釈適用を 誤ったもので、その誤りが判決に重大な影響を及ぼすことは明らかであるといわざるを得ない」。

以上の理由により、原判決を破棄、自判し、罰金一万円の実刑を言い渡した。

〔評釈]

 本判決は、公訴権濫用論を具体的に適用した裁判例として注目を集めた山口簡裁平成二年一〇月二二日判決に対する控訴審判決である。第一審は、被告人の駐 車時間が通常の取締り基準を下回る程度であったことを認定し、公訴権濫用の理論 を適用して刑訴法三三八条四号により公訴を棄却した。これに対し本判決は、その 駐車時間の認定に誤りがあるとして、すなわち第一審が「濫用にあたる」と評価した事実それ自体が存在しないことを理由として、これを破棄したものである。本判決における「公訴権の濫用にあたるか否か」についての判断は傍論でしかなく、そ こでの判断内容も、従来の最高裁判例を引用してこれに従うものに過ぎないが、かつて下級審判例の創造的展開と上訴審によるその止揚が公訴権濫用論の具体的な形 成を推進した経緯を思えば、本件をめぐる一連の経過が、確立した判例理論そのものに対して何らかの反省材料を提示するものとなるであろう。

 通説的な整理によれば、公訴権濫用論とは、検察官の公訴提起に1)客観的な嫌疑が伴わない2)起訴猶予すべき事案である3)違法な捜査手続の結果なされた、などの事情が存在する場合に、公訴提起の効力を否定して形式裁判によって手続を終 了させるべきだとする理論であり、一九六〇年代に公安・労働事件などを中心に実際の法廷で盛んに主張されたことを契機として、戦後刑事訴訟法学の最大の論点の 一つとなった。やがて、最決昭和五五・一二・一七刑集三四巻七号六七二頁(チッソ補償交渉事件)が、第 2類型について、公訴権濫用論による公訴棄却の可能性を 理論上は認めつつも、極めて厳格な要件を示して具体的な適用の可能性をほぼ封じ込めたので、それ以降は、判例が招いた閉塞状態の打開が当面の課題とされてきた。 近時は、訴追の抑制が立法論的課題であることが強調される一方で(田宮裕『刑事 訴訟法』二二四頁(一九二二年)など)、「濫用的訴追の抑制」という視点を離れ、 被告人救済のための訴訟障碍事由あるいは有罪判決の阻止事由としての再構成が試 みられている(寺崎嘉博「公訴抑制の法理と有罪判決阻止の法理(1)(2)」山形大学 紀要(社会科学)一九巻一号・二一巻一号(一九八八−九〇年)、指宿信「刑事訴訟 における手続打切り(1)(2)(3)」北大法学論集四三巻一号一頁・同三号三九五頁・同 四号六八三頁(一九九二年))。

第一審のいう「公訴権濫用」が右の2)ないし3)のいずれの類型にあたるのかは必ずしも明確ではない。本判決は第一審の判示を第2類型に関するものと解し、チッ ソ補償交渉事件のみを先例として引用している。しかし、第一審が巡視員の取締り方法の杜撰さ、その後の捜査での被告人の弁解に対する捜査機関の対応に対して、 厳しい批判を加えている点からは、第 3類型の観点からの考察も可能であるように思われる。第一審が取締り経過の杜撰さなどに論及したのは、公訴提起が訴追裁量の不平等な行使(第類型)であったとする際に、その前提として本件の駐車時間 が起訴の基準である一〇分間に満たないものであったことを推認させる事実を示したものに過ぎないというのが本判決の解釈のようである。捜査の違法について、それを訴追裁量の問題(第2類型)の中に解消する(いわゆる間接構成説)のが、従より買T例が示している立場なので(最判昭和四四・一二・五刑集二三巻一二号一 五八三頁など)、本判決が第3類型を独立に問題としないことは一見当然であるかにも見える。しかし、駐車時間認定の前提事実としてのみ利用することと、間接構成説のいう「第2類型に解消する」こととは別物であり、間接構成説による場合で あっても捜査手続の瑕疵が訴追裁量逸脱の一つの要素として独立に論定されなけれ ばならないはずである。第一審裁判所の真意はともかくとしても、第一審認定事実 に対しては、2)3)両方の観点から公訴権濫用論の成否が検討されるべきであったと いえよう(松尾浩也・鈴木茂嗣編『刑事訴訟法を学ぶ(新版)』[三井誠]一九五 頁(一九九三年)。なお、高田昭正「判批」法学セミナー四三六号一二七頁(一九 九一年))。

おそらく第一審は、右の二つの類型の区別を意識せずに、検挙から起訴に到る過 程を一連の不可分な手続として認識して、その不平等を問題にしたのであろう。一 般的には、訴追裁量権の行使についても、様々な態様の手続的瑕疵が考えられる。 しかし、本件ではいずれについても、不平等な権限行使という性質上同一の瑕疵が 問題となった。また、道交法違反事件の起訴猶予率は極めて低く、送致された事件 のほとんどを起訴する運用がなされているので、検挙における不平等がそのまま訴 追における不平等を生起することになる。このような事情が、第一審に右のような 観察方法をもたらしたものと思われる。また、本判決が、第 2類型についてのみ考 察を加えているにもかかわらず、さしたる不都合はないかのごとき印象を与えるの も、この点に起因していると言えよう。

 さて、公訴提起の不平等についてリーディングケースとされるのが、本判決が引用したチッソ補償交渉事件の最高裁決定である。前述のとおり本決定は、刑訴 法三三八条四号により公訴が棄却される場合があることを認めるものの、その要件 を「たとえば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合」に絞り、当該事件での公訴権濫用論の適用を否定した。そこでは、チッソ株式会社の側と被 告人を含む患者側との間に発生した、同質性や直接的な関連性の希薄な個々別々の 犯罪事実を、社会的・巨視的観点から「水俣病公害問題」という一個の紛争としてとらえ、その両当事者に対する扱いに格差が生じたことが平等原則違反として問題 にされた。それまでの不平等訴追をめぐる議論では、もっぱら同種の他事件や同一 事件の共犯者の間での取扱いの差異が問題にされていたことを考えれば、この事件は 不平等訴追の中でもかなり特殊なタイプの「不平等」を扱った事例であると言えよ う(鈴木茂嗣「公訴権の濫用と可罰性の理論」判例タイムズ三五四号三四頁 (一九 七八年) 、小田中聰樹『刑事訴訟と人権の理論』二一八頁(一九八三年)、寺崎嘉 博「憲法的訴訟条件論試論」山形大学紀要(社会科学)二三巻一号六六頁(一九九二 年) など)。同決定が「審判の対象とされていない他の被疑事件について公訴権の 発動の当否を軽々に論定することはゆるされない」として、公訴提起の当否を他事 件の扱いとの比較によって論じるというアプローチに消極的な姿勢を示した背景に は、このような、事案の特殊性があると思われる。不平等訴追を問題にする際に他事件の扱いについて触れるのは、当該事件の公訴提起の当否を判断する材料として それを利用するだけであって、他事件についての公訴提起の許否を論定しているわ けではない(田宮裕「訴追裁量のコントロール」立教法学一一号一八三頁(一九六 九年))が、同決定では類似性や直接的な関連性に乏しい他の事件が比較の対象と なったため、「判断材料」という本来の意味が分かりにくくなったのであろう。

捜査の不平等については、いわゆる赤碕町長選挙違反事件(最判昭和五六・六・ 二六刑集三五巻六号二六頁)で争点となったことがある。最高裁は、被告人自身に 対する捜査が「一般の場合に比べ捜査上不当に不利益に取り扱われたものでないと き」は、対向的共犯関係にある者の一部が不当に有利に扱われた場合であっても、憲法一四条に違反しないとした(公訴提起の効力については何ら判示していない)。 この判決は「一般の場合と比べ」不当に不利益に扱われたときはその捜査手続が違法となることを認めているので、問題は何が「一般の場合」かにある。最高裁の意 図するところは明確でないが、たとえば、多数の共犯者のうち、「一部」でなく、そのほとんどの者が有利な扱いを受けている場合(最高裁判例解説刑事篇昭和五六 年度〔木谷明〕一六八頁(一九八五年))や、同種・同態様の犯罪について、有利 な扱いがなされることが一般的化しているような場合(刑訴法判例百選(第五版) 〔田宮裕〕六三頁(一九八六年))には、被告人のみになされた不利益な扱いが、 違法な不平等捜査とされる余地が残されていると解することも可能であろう。

さて、本件についてみると、そこでは同種事件の間での異なった取扱いという典型的な平等原則違反が問題とされている。そして、この場合の際立った特徴として 考えられるのは、取締りの基準が一〇分間という形式的なものであり、その慣行が 捜査機関内で組織的に決定され運用において常態化されていることである。さらに、 その慣行の存在が公判廷で明らかにされているのに対して、被告人のみを特に検挙 した合理的理由理由は具体的に論定されていない。むしろその場合は、巡視員が過 失によって現認時刻の取り違え、通常どおりの扱いをしているものと誤信して検挙 したということになろう。また、道交法違反事件のようないわゆる形式犯については、たとえば刑法犯である各犯罪と比較した場合、犯罪の態様や行為者の主観的要 素などに各事件ごとの個性が乏しいので、起訴猶予すべきか否かの考慮にあたって 個別の事件や被疑者の固有の事情にかかる比重は極めて小さく、前述のように、起訴の基準は検挙の基準とほぼ連動して機能している。したがって、検挙について右で述べたことは、検察官の公訴提起に関してもほぼ等しく妥当するはずである。起 訴基準もまた形式的・固定的でかつ明確であって、それと異なる扱いをする合理性 は、本件では立証されていないのである。

チッソ補償交渉事件決定が「極限的な場合」にまで要件を絞る実質的な根拠となった訴追裁量の広範性、判断要素の多様性、それによる裁量基準の不明確性・不可 視性という事情は、本件には存在しない。また、同決定が他事件との比較というア プローチに厳しい姿勢を見せた背景に、先に述べたような事案の特殊性があったと すれば、「確立された基準からの逸脱」が争われる本件では、別の具体的事件の起訴・不起訴の当否に触れることなく当該起訴の適否を判断することが可能であり、チッソ補償交渉事件の特殊性とはいわば対極にあるといえる。同事件決定が2類型の公訴権濫用論に対する一般的な判示を意図していたことは明らかであるが、そこで提示された理論は、その合理性を基礎づけた事情が存在しない本件のような事案について、妥当な解決を導き得るものとは言い難い。従来の判例理論は、かつてその判例が扱った具体的事件の解決についてはともかく、一般論としての妥当性には限界があり、本判決が仮定した事実への適用がもたらす不合理によって、そのことが明らかになっていると言えよう。本件第一審が最高裁判例を「無視」する形で論を進めた動機も、この点にあるのかも知れない。

また、第3類型の観点からは、本件のように、ある種類・態様の犯罪行為について、その有利な扱いが一般化されているような場合は、赤碕町長選挙違反事件判例 の射程外とする考えも、前述のとおりすでに存在する。本判決は、第3類型の観点 からは第一審を審査しなかった。しかし、本来は赤碕町事件判決の射程が厳しく問 われるべき事案であったといえよう。

 たとえ平等原則違反の観点をはなれても、第一審認定事実のようなわずかな 時間の駐車違反行為について、それを検挙・訴追することの妥当性自体に疑問があ る。第一審は、可罰的違法性不存在の主張を退けた。確かに、駐車時間が短いこと をもって事案の軽微性を基礎づけることはできない。形式犯の構成要件は、その解釈において法益侵害の実質的な程度を問題にする余地に乏しく、停止させた車両か ら離れる時間がわずかであっても、道交法二条一項一八号にいう「駐車」に該当することは否定できない(最判昭和三九・三・一一刑集一八巻三号八五頁参照。本件 第一審もこれを引用する)。事案の軽微性を理由にした実体法解釈による非犯罪化 は、形式犯の処理には馴染まないのである。

しかし、ダイバージョン(広義)の必要性は、軽微性のみでなく刑罰の実効性の 観点からも検討されなくてはならない(鈴木茂嗣「軽微事犯の処理・総論」刑法雑 誌二八巻二号四頁(一九八七年))。駐車違反は平均的なドライバーが日常的に犯 す「国民的犯罪」である。捜査機関の取締りはその膨大な暗数に到底追いつかず、 違反者の「犯罪者」としての意識もほとんど存在しない。そして(運悪く)検挙さ れた者に科される罰金は、「刑罰」としてのインパクトを失い、抑止効はほとんど 発揮されていない(立教大学交通法研究会「交通取締・交通切符手続の研究4」法 律時報五五巻9号九六頁(一九八三年))。駐車違反に対する刑罰権の行使は、円 滑な交通秩序の達成に、少なくとも他の行政的取締り手段以上に実効的に寄与する とはいいがたいのである。また、今日の違法駐車の氾濫が、駐車場の整備など行政 施策の遅れに、かなりの程度起因することも指摘されて久しい。そうだとすれば、 検挙・訴追の対象は、その抑止効が十分に期待できる違反行為、たとえば現実に通 行の妨げや事故の原因となる危険の著しい行為に限定されるべきであり(米田泰邦 「手続的可罰評価と非犯罪化」高田卓爾先生古稀祝賀『刑事訴訟の現代的動向』二 七三頁(一九九一年))、短い時間の駐車違反を検挙しないことは、捜査機関の恩 恵的な措置ではなく、処罰に適しない行為を刑事手続から離脱させる手続的な非犯 罪化の一態様としてとらえるべきであろう。そして、道交法のように実体法解釈に よる非犯罪化が困難な犯罪類型の場合には、手続面での対応が特に強く要請される のであり、捜査・訴追段階でのダイバージョンが適正に機能しなかったことが明ら かな場合には、裁判所が形式裁判をすることによってその役割を担うべきと言えよ う。

 本判決が示した判断は、すでに「安定した判例法」となりつつある従来の判例理論が含む様々な不都合を露呈する形となった。本判決での判示は傍論でもあり、これに先例としての意義を与えるべきではない。また、明示的に先例として扱われない場合であっても、その判示がのちの裁判例に事実上の影響を与えることがあるが、本件に関しては、そのような「事実上の影響力」も厳しく警戒されなければならない。将来において第一審が認定したような事実が直接の判断の対象となる可能性も十分に考えられるが、そのときには、従来の判例理論を一般的基準として無批判に受け入れるのでなく、当該事案との関係でその射程を限定的にとらえ直す努力がなされるべきであろう。

参考文献など

本文中に掲げたもののほか、チッソ補償交渉事件決定以前の文献については、最高裁判例解説刑事篇昭和五五年〔渡部保夫〕四一二頁 (一九八五年) 、同決定以後 の文献については、本文所掲・指宿論文(1)一〇頁の文献一覧を参照。

※山口県弁護士会・末永汎本弁護士のご厚意により、関係資料をご提供頂いた。




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