学生法律相談室が与えてくれたもの

立教大学法学部学生法律相談室機関誌「RALA」39号9-11頁(2021年)


立教大学法学部での学生時代に在籍していた「立教大学学生法律相談室」は、法学部の準正課活動と位置づけられている団体です。法学部の教員が室長として対外的責任を負い、卒業生の法曹が顧問として指導を行っていましたが、運営は学生が主体的に行っていました。地域住民から無料法律相談を受けることによって、法的知識とその活用を生の事案の解決に結びつけて学ぶとともに、いわゆるロイヤリングの入口を学んでいました。法科大学院の構想すらなかった1980年代に学部教育の中でこのような取り組みを開始した母校の先見性(室長であった故・澤木敬郎先生の慧眼)に、今さらのようではありますが、ただ驚くばかりです。2020年の冬に母校の後輩たちから連絡があり、機関誌のOB・OG寄稿欄に一文を書くよう依頼されました。時間のない中で書き殴った雑文ですが、自分にとっては、学生時代の学びがその後の大学教員としての活動にどう役立ったのかを整理するよい機会になりました。寄稿の機会をくださった後輩のみなさんに感謝します。


学生法律相談室が与えてくれたもの

1.あの頃について

私が立教高校(現在の立教新座高校)から法学部に進学したのは1987年です。記憶違いでなければその年に学生法律相談室10周年記念のパーティーが催され、私は新入生として出席しました。一昨年、40周年記念OB・OG会のご案内をいただいたときは、自分の学生時代が四半世紀以上前であることを知って、気を失いそうになりました。

あの頃の学生法律相談室は、全学年合わせて30名ちょっとの規模だったはず。最大派閥だった法学研究会が100人以上の会員を擁していたのに比べれば、かなりこぢんまりとした自称・少数精鋭の団体でした。

相談活動は、毎週土曜に相談を受け、学生で回答内容を検討した後、顧問の先生方のチェックを経て翌週に回答していました(現在もそうでしょうか?)。我々の学年が執行部のとき、相談活動を通じて得られるものを最大化し、回答の正確性を強化するため、それまでは(先輩たちがとても優秀であったため)比較的柔軟に行われていた相談内容の検討方法を見直して、[1]相談の途中で事実の聞き漏らしがないかどうかを別室で検討する、[2]来談者からの聞き取りをすべて終えてお帰りになった後、法律構成や具体的な解決方法を検討する、[3]翌週、来談者への回答を終えた後、回答内容や相談でのコミュニケーションを再度検証する3段階のしくみを整備しました。現在はどうか知りませんが、このシステムはその後かなり長い間、採用され続けていたようです。

学生の「分際」でありながら、社会生活での困りごとを抱える人たちのお話を聞いて法的な判断を行うのは、顧問の先生方のご指導があるとはいえ、大変な重圧でした。現役学生のみなさんもきっと同じ重圧の下で活動していることでしょう。我々がそんなことを話していると、当時の室長だった澤木敬郎先生(国際私法)は、いつもの笑顔で「何かあったらボクが立教を辞めればいいだけのことなんだから、キミたちは思い切って勉強しなさい」と仰いました。それは温かなエールであると同時に、法を語ろうとする者の責任の重さを我々に向けて問い返す言葉でもありました。今も忘れられません。

2.「なぜ学生に法律相談をさせるのか?」

まだ司法試験に合格したわけでもない、もっと言えば将来法曹を目指す者ばかりでもない学生団体が法律相談を行う意味はどこにあるのでしょうか。民法を学習したいのであれば、基本書や判例教材を読み、演習教材の事例問題を解いて答案を書くほうがずっと効率的に思えます。実際の法律相談は学習に適した事例ばかりではないし、それどころかそもそも法的紛争ですらないこともあります。学生の法律相談なんて、弁護士の真似ごとをするだけの虚しい自己満足に過ぎないのではないか。まだ歴史が浅かった当時の法律相談室では、学生の間でも、先生方の間でも、時折そんな議論がありました。

学生時代の自分がこの問いにどう答えていたのかは記憶にありません。相談活動から大切な「何か」を得ていることは確信しつつも、その意味を十分に理解していたかどうかは心許ありません。ただ、卒業から30年が過ぎて様々な経験をしてみると、あの頃やっていたことの意味が少しはわかるような気がします。

実定法学は、条文を解釈して規範を明らかにし、具体的な事実にそれを適用して結論を導くための学問です(もちろん「ざっくり言うと」です)。講義や教科書で学ぶとき、「事実」は所与のものとしてあらかじめそこに記載されています。しかし、現実の社会で法を解釈して適用するときは、「事実」がどこかに書いてあるわけではありません。様々な資料(裁判であれば証拠)に基づいて事実を明らかにすることから始める必要があります。普通の勉強ではなかなかそのことに気づけません。しかし、法律相談室の活動では、来談者のお話や持参した資料から「事実が何であるか」を明らかにするプロセスを必然的に体験して身につけることができます。

さらに、講義や教科書にある法的な知識から導かれる結論は、実定法の解釈としては「正解」かもしれません。しかし、実際の紛争当事者がその「正解」に従った行動をとれるかどうかは別の話です。法律相談をしていれば、来談者が社会生活上の様々な事情や相手方との関係から然るべき手段や公的な手続きをどうしても行えない場面にしばしば出くわすはずです。法律知識の「正解」が、当事者の問題解決には無力なことがある。法理論の「正しさ」の相対性や限界を具体的な経験の中で感得できるのも、法律相談室の活動が持つ大きな意義ではないでしょうか。

3.法律相談と法学教育

私は、法学部を卒業した後、そのまま立教の大学院法学研究科に進んで刑事訴訟法を専攻しました。法学部助手(現在の助教)や跡見学園女子大学を経て、現在は鹿児島大学法文学部の教員として学生を教えています。

鹿児島大学では、2005年から2017年まで、法科大学院(現在は廃止)の教育を担当しました。鹿児島大学法科大学院は、いわゆる司法過疎地への人材供給をミッションのひとつに掲げていたことから、県内の離島(屋久島、種子島、徳之島)での法律相談実習を必修科目としており、私も毎年、現地へ赴きました。刑訴法の研究者教員が離島での法律相談に同行しても、相談そのものには貢献できません。それでも、会場の設営、受付から相談までの流れ、実務家教員の指導の下で学生が行う検討会の進行を支援するにあたっては、学生時代の法律相談室での活動のノウハウがそのまま活用できました。

離島という特別な環境では、教科書に書かれている「正解」を伝えるだけでは、来談者にとっての解決にはつながらないことが少なくありません。たとえば、島内には簡易裁判所しかなく、地裁が管轄する手続きを本人が行うためには、多大なお金と時間をかけて海を渡る必要があります。そのような場面で実務家教員(弁護士)の先生方がどのような対処をするのか。地域に根ざした法律家ならではの様々な配慮は、学生時代の法律相談室での経験を通して見ることで、その凄みを一層感じることができました。

そして何よりも、ともすれば司法試験の受験対策以外の活動を無駄なものと考えてしまいがちな法科大学院生に対して、法律相談を今ここで行うことの意味を自信を持って語るねことができたのは、学生時代の自分自身の経験のおかげに他なりません。

法科大学院の教員は、日頃から司法試験を意識した長文の事例問題を作成する必要があります。ここでも学生法律相談室での経験が大きく役に立ちました。問題文に書き込む個々の具体的な事実がどのような構造で相互に結びついて要件を充たすことになるのか(あるいは充たさないことになるのか)を緻密に考えながら事例を作り上げる作業は、「作る」のか「探す」のかの違いはあれど、法律相談で来談者から事実を聞き出していくのと本質的には同じプロセスです。法科大学院の期末試験問題は、認証評価や政府機関による視察を受けるとき、評価員による査読を受けることがあります。高名な裁判官から「実務家の目から見ても無理なところがなく、個々の事実がきちんと作り込まれたよい問題だと思います」と誉められたときは、「当たり前だろ、なめんなよ」という表情を一応は作りながらも、学生法律相談室が与えてくれたものの大きさを身に染みて感じました。学部教育の担当となり、公務員志望や法曹コースの学生を指導している現在も変わりません。

そしてこのことは、事例問題を「作る」側だけでなく、それを「解く」側にも共通しているはずなのです。現役の室員の中には、法科大学院へ進学して法曹を目指している人も少なくないでしょう。そんな人たちには、今やっている相談活動はそっくりそのまま司法試験のためにも役立つはずであることを、声を大にしてお伝えしたいです。

4.学生のみなさんへ

こうして振り返ってみると、まだ法科大学院制度も存在しなかった30年以上前に、学部の教育の中で法律相談を始めた当時の先輩方や先生方の圧倒的な「先見の明」に気づかされます。現役学生のみなさんも、いつかそのことを知るはずです。大学の姿や法学教育のしくみが次々と変容するこの時代にあっても、立教大学学生法律相談室が変わらずに存続して活発な活動を続け、室員のみなさんの現在と将来の拠り所であり続けることを心からお祈りしています。50周年記念OB・OG会でお会いしましょう。

1991年卒・中島宏




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