判例レビュー

被告人が被害者を押して転倒させて傷害を負わせたとされた事件で、
暴行の証明が十分ではないとして無罪を言い渡した事例

季刊刑事弁護31号177-179頁(2002年)



【キーワード】

目撃証言の信用性
被害者証言の信用性
自自
略式命令と正式裁判

事件番号 平成11年(ろ)第1986号傷害被告事件
宣告日 平成13年3月15日無罪(確定)
裁判所 東京簡易裁判所刑事第1室
裁判官 横川保廣
検察官 小林和美
弁護人 井上幸夫
参照条文 刑法204条

判決のポイント

事案の概要

本件は、平成10年8月8日、健康センター(入浴施設)の宴会場で歌謡ショーを見ていた客Aが転倒して傷害を負った事案である。歌謡ショーの見物場所についてAと揉めていた別の客X(被告人)が手でAの胸ぐらを押して転倒させたとして起訴されている。これに対してXは、フロントに向かってAの横を通り過ぎようとしたとき、Aが椅子から立ち上がってよろめいて倒れそうになったのでこれを支えようとして手を掴んだところ、そのまま転倒したAに引っ張られて自分も同時に倒れたのであり、胸ぐらを押すなどの暴行は存在しない旨を主張して無罪を争った。

Xは、自分はAを押し倒してはいないものの、自分が関わった場面でAが転倒して傷を負ったことに責任を感じ、見舞いに赴いたり、入院保証金を負担するなどした。また、Xは警察の取調べに対しても、当初は押し倒したことを否認したものの、のちに自分がAの胸を押したことを認める内容の供述録取書に署名押印した。これを受けて、検察官は、Xを略式手続により処理することとし、Xが同意したため、罰金15万円の略式命令が出された。しかしその後、Xは「罰金になるのは構わないが、傷害罪という罪名になることには納得できない(交通事故のような過失として処罰されるならばよいが……)」と考え、知人に紹介された弁護士に相談して弁護を依頼し、平成11年12月15日に正式裁判の請求を行った。

弁護活動と公判の経緯

弁護人は、まず、本件の結果である傷害(外傷性脊椎症)が52日の加療を要するものだとされた点について疑問を持ち、診断書を証拠とすることに同意しなかった。医師への証人尋問は、多忙などの理由で困難であるため、検察官と弁護人の双方がAの傷害について医師に書面にて照会することによってこれに代えた(なお、その結果を踏まえて、最終的には、弁護人は診断書の取調べに同意した)。医師からの回答により、弁護人は、Xは以前から脊柱管狭窄症という疾患を有しており、本件傷害のための治療とされている頸椎管開放手術は、この疾患のために施行される必要があったとの主張を構成している。判決は、これを直接の争点とはしなかったが、ありがちな傷害事件のひとつとして処理されかけた本件の成立に疑問を呈する最初の動きとして、その後の公判の流れに及ぼす効果があったようである。

暴行の有無の争いについては、弁護人はXの自白調書、被害者Aの供述調書、目撃者Bの供述調書の一部などについて不同意とし、[1]実況見分およびXの取調べを行った警察官、[2]被害者A、[3]目撃者B、[4]被告人Xについて、それぞれ証人尋問が行われた。A,Xそれぞれに対する尋問では、暴行したとされるまでの経緯や暴行により転倒したとされる時点の状況について、実況見分調書に示された平場の客観的な状況との整合性を検討するかたちで、それぞれの証言の信用性が争われた。また、目撃者Bへの主尋問では、Xによる暴行をクリアに目撃したかのような証言が得られたものの、弁護人による反対尋問によって、捜査段階での調書ではむしろ暴行の場面は確認しておらず、XがAを押したかどうか不明であるとの内容になっていること、目撃したとされる地点と現場との位置関係が暖昧であることなどが指摘され、右証言の信用性が弾劾されている。なお、そのほかにXの人柄(本件のような経緯で暴行には及ばないこと、自分が押し倒したのではなくても被害者に治療費等を支払うことがありうること)を明らかにするためにXの息子の証人尋問が弁護人の申請により行われている。

本件を審理した裁判所は、各証言の内容を、主として現場の位置関係と照合しつつ、適宜質問を補充しながら、丁寧に確認していることが記録から窺える。7回もの公判期日を重ねた後、警察が作成した実況見分調書が暖昧なものであったことなどから、最終的には、裁判所が現場の検証を行うことを示唆し、弁護人の請求によって検証が行われた。この後、第1回公判から約1年後である平成13年2月22日に、論告・求刑が行われて結審している。

判決

判決は、まずAの証言について、[1]実況見分や検証で示されたAの転倒位置と、暴行がなされるまでの経緯についての供述内容とが矛盾すること、[2]暴行までの経緯について供述内容自体が不自然であること、[3]捜査段階の調書と公判での供述とが相互に矛盾することなどから、その信用性は低いとした。また、Bの目撃証言についても、[1]捜査段階の調書と公判供述の内容とが矛盾していること、[2]捜査段階の調書で暴行したことまで明確には目撃していない旨を述べていることなどから、暴行を目撃したことについて、あるいは、一連の経緯のうちどの範囲の事実を目撃したのかについて疑問があり信用性が低いとした。さらに、被告人の捜査段階の自白についても、[1]その内容がAの転倒位置など現場の状況と一致しないこと、[2]調書じたいに、本当に暴行を認めて供述しているのかを疑わしめる記述があること、[3]被告人の人柄からすると、暴行の事実がなくても、不利益な自白をして略式手続に同意したり、Aの加療に必要な費用を出したりすることがありうることなどを理由に、信用性が低いとしている。他方、被告人の公判供述には、客観的事情に照らして不自然・不合理な点がないとした。以上により、被告人が暴行を加えた疑いがまったくないとまではいえないが、暴行を認めるための証拠は十分でないとして、「疑わしきは被告人の利益にの鉄則にしたがい」無罪の言渡しをした。

本件のように、飲酒をしている見知らぬ者同士が、公共の場所で些細な紛議を起こす場面は、日常的に多々存在する。その場面において、思いがけず一方がケガを負ったのが本件であるから、捜査機関は、「よくある喧嘩」のひとつとして定型的な処理をしたのであろう。しかし、裁判所は、本件の被告人と被害者が共に高齢であることもあって事件(事故)当時の記憶が必ずしも明確でなく、明確でない記憶を推測で補おうとするため供述内容に変遷や矛盾が生じていることに注目して、各証言内容と現場の客観的な状況との対比を徹底的に行うことにより、「合理的な疑い」の存在を明らかにした。「灰色無罪」を明示する判示方法が適当であるか否かはともかくとして、供述の信用性を客観的証拠との関係から厳しく吟味し、利益原則を正面から適用した妥当な判決というべきであろう。

被告人が捜査段階で自白したり、略式手続で処理することに同意した経緯も興味深い。被告人自身は、漠然とした責任感や同情の気持ちから、一連の出来事について自己の帰責性を認める行動をとった。このように、軽微とはいえ犯罪と認定されることや、罰金とはいえ刑罰を執行されることの意義を、法的な次元で認識せずに対処する市民は、決して少なくないだろう。そうだとすれば、略式手続で処理されるような軽微事案におけるr隠れた冤罪」とその受忍もまた、少なからず潜在しているのではなかろうか。この意味で本件は、重大事件のみならず軽微な事件においても、早期に法的なアドバイスを受けることの必要性を明らかにした事案だといえよう。

本稿の執筆にあたっては、本件の弁護を担当された井上幸夫弁護士(第二東京弁護士会)のご助力をいただいた。記してお礼を申し上げる次第である。

中島宏(なかじま・ひろし/跡見学園女子大学専任講師)


判決文

【主文】
被告人は無罪。

【理由】

第1 公訴事実

本件公訴事実は、「被告人は、平成10年8月8日午後2時30分二ろ、東京都江戸川区西葛西5丁目8番23号所在の葛西健康センター「ゆの郷」3階廊下で、A(当時71歳)に対し、その胸倉をつかんで押し倒す暴行を加え、よって、同人に加療約52日問を要する外傷性頸椎症等の傷害を負わせたものである。」というものである。

第2 外形的事実及び本件の争点

1 関係各証拠によれば、公訴事実の日時、場所において被告人と被害者Aが転倒し、披害者が加療約52日問を要する外傷性頸椎症等の怪我をした事実を認めることができる。

2 被告人は、当公判廷において、被害者を押し倒したという暴行の事実を否認し、弁護人は、被害者が椅子から立ち上がる際に、自ら転んだものであると被告人の暴行の事実を否認し、また、被害者は元々、頸椎脊柱管狭窄症という疾患を有していて、本件傷害のために行われた手術はその疾患のために施行する必要があったものであるから、加療約52日問を要する傷害を負わせたという事実は認められないとして、その因果関係を否認する。

第3 当裁判所の判断

1 そこで、まず、被告人が被害者に公訴事実記載の暴行を加えたかどうかについて検討するが、暴行を加えた事実に関する証拠としては、被告人の検察官調書、警察官調書、証人Aの公判供述、Bの公判供述があるので、これらについて検討する。

2 証人(被害者)Aの公判供述について

(1) Aの証言の要旨は次のとおりである。私が実況見分調書(甲5)添付の「現場の見取図」(以下「見取図」[略〕と言う。)[1]の位置で椅子に座って歌謡ショーを見ていると、被告人が何処からかやってきて、私の前の(A)点に立って写真を撮り始めた。そこで、私が被告人に、1そこで立っていると見えないので、すいませんが座るかよけてくれるかしてくれませんか。」と言った。すると、被告人は、「生意気なことを言うな。この野郎。」と言って近づいて来たので、私も立ち上がって、被告人の方に1,2歩前進し、暴力を振るわれるかと思って、恐いから、まあまあという感じで謝るふりをして両手を自分の前に出し、被告人の体を押さえたところ、被告人から、当時着ていたパジャマのような浴衣の、上から2番目のボタン辺りで、乳首より少し上くらいの位置を10〜15センチメートルの間隔で両手で掴まれ、そのまま押されて、半歩か1歩下がったときに、足が何かに引っ掛かったかどうかして、そのまま後ろに倒れてしまった。被告人も私に覆い被さるように倒れた倒れたときに体は椅子に当たっていない。倒れた以降のことは覚えてなく、倒れた位置も覚えていない。

(2) しかしながら、証人Aの供述には、次のような疑問点があり、これをもとに真にAが述べるような経緯で同人が転倒したと断定するには十分ではないといわざるをえない。

ア Aが倒れていた位置については、実況見分調書(甲5)及び当裁判所の検証調書で、いずれも目撃者Cが指示説明する地点である見取図(X)付近であると認められるところ(なお、以上の調書はいずれも同一の者による指示説明により作成されたものであるが、細かく検討すると、若干の違いがある。例えば、(X)点を、事件により近く、Cにとってより記憶が鮮明であったであろう時期に作成された見取図を基本に考えると、見取図のエレベータ入口からの距離に照らすと、当裁判所の検証調書添付の検証見取図(以下「検証見取図」という。)の(X)の位置はもう少し下の方で、(△)に近かったものと思われるし、検証見取図の下の正方形に組み含わされた4個の椅子の位置も、見取図にある(A)から[1]への距離に照らすと、もう少し上に位置していたのではないかと思われる。いずれにしても、事件発生時の正確な記録が残されていない本件では、大まかな位置として捉えざるをえないものである。)、Aが証言するように、見取図[1]の地点から1〜2歩前進したところで胸を掴まれ、そこから押されて倒れたとすると、Aはおおよそ見取図[2]から(X)までの問を押されたことになる。そして、[2]から(X)までの距離は見取図からは分からないが、それより手前の(C)までの距離が直線で6.1メートルあり、実際には、その中問に組み合わされた4つの椅子があるから、直線で行くことはできないし、当裁判所の検証の結果によれば、椅子の組み合わせの一辺は約3メートルであるから、おおよそ見取図の左に約3メートル押し、そこから90度の方向転換をして更に上に3メートル以上押してゆかないと、[2]から(X)には到達しないことになる。ところが、Aは、被告人から押されて半歩か1歩下がったところで倒れたと述べ、3メートルも下がってないとはっきりと述べていて、結局、Aのこの点の証言は全く事実と異なっている。

検察官は、この点につき、Aは倒れて気を失ってしまい、倒れた位置は覚えていないと述べているのであるから矛盾しないとするが、Aは倒れるまでの状況についてはかなり詳細に述べており、倒れる寸前の状況についても何かに足が引っ掛かって倒れたと記億しているというのであるから、方向転換を伴う約6メートルもの距離を押されたことについて全く記憶がないと考えるのは不自然であり、また、明確にそのようなことはないと述べているところであって、やはりAのこの点の証言は事実と異なると言わざるを得ない。

イ Aは、被告人に「そこで立っていると見えないので、すいませんが座るかよけてくれるかしてくれませんか。」と言ったら、被告人が、「生意気なことを言うな。この野郎。」と近づき、胸ぐらを掴む暴行を振るったと証言し、弁護人の、「被告人は証人に、広問の中に席があるから、そちらで見れば良いんじゃないかと言った記憶はありますか。」という質問に「ありません。」と述べ、「証人の方で、いつもこの場所で見ているんだと言った記憶はありますか。」という質問には、「そのときには、あまり余計なことは言いませんでした。よく覚えていません。」と答えている。しかしながら、「退いてくれ」と言われただけで、その他に何も言っていないのに、直ちに被告人が暴力を振るったというのは、被告人がAとの問で口論があったと述べていることや、被告人が昭和7年生まれの当時66歳で、警備員の仕事をしていたということも考えると、不自然である。

ウ Aは公判廷では見取図[1]に座って歌謡ショーを見ていて、そこから被告人に声を掛けたと述べ、歩いて被告人の方に行って声を掛けたことを否認するが、実況見分調書(甲5)によれば、被告人が見取図(B)に移動してきたので、見取図[2]地点に行って「見えないから退いて下さい。」と言ったと指示説明をしていることが認められ、捜査段階の説明と異なっている。

エ Aは見取図@の地点で歌謡ステージを見ていたというが、実況見分調書(甲5)添付の写真1,6及び検証調書添付写真第8号からは、見取図[1]の位置からではステージに向かって右端に吊されたスピーカーの位置程度までしか見えないように思われ、不自然である。

3 証人Bの公判供述について

(1) Bの証言の要旨は次のとおりである。

私が、歌謡ショーが始まって、私の検察官調書(不同意部分を除く。甲6)添付の図面(以下「B図面」という。)にあるのれんの方から歩いてきて、フロアーに出てみると、被告人が私に背中を向けているAと向き合い、被告人が腕を前に出してAの胸ぐらを掴んでいて、Aが勢いよく後退してきて倒れました。被告人が押した力によって倒れたと思いました。B図面の◎は、Aが倒れたのを見た場所です。

(2)しかしながら、証人Bの供述には、Bが真に、被告人がAの胸ぐらを掴んで押す暴行を加えていたことを目撃したのか、あるいはどの範囲の事実を目撃したのかについて、次のような疑問点があり、全体としてその信用性は低いものといわざるをえず、これをもとに被告人の本件に関する暴行を認定することは困難といわざるをえない。

ア Bは、B図面ののれんからフロアーに出た時から、被告人がAの胸ぐらを掴んで押していて、二人が移動してくるのを見たと言うが、Bの検察官調書(不同意部分を除く、甲6)によれば、「私がこの二人に気付いたのが◎の位置です。」と述べており、この点につき、公判での証言時点ではのれんを出たときから◎の位置までに見たと思うと変更する理由については、「今思い出すと、のれんを出たときに視界に入ったと思ったのです。」と述べるのみで、はっきりとした根拠を述べることなく、むしろ、二人を見たときに歩いていたか止まっていたか覚えがないとも言い、◎の位置で初めて見たという可能性があることも認めている。

なお、事件当時、このフロアーには沢山の客がいたことが伺え、のれんから出て直ぐに二人の様子が見えたかどうかも疑問であるし、二人が大声で話をしていたのが聞こえて注目したというのでもないから、検察官調書の方が自然であると思われる。

イ 被告人が腕を前に出してAの胸ぐらを掴んでいたという点についても、弁護人の反対尋問に対し、被告人がAの胸ぐらを掴んでいたかどうかは、Aの背中で見えなかったと認めながらも、「でも、さわってないのに、こうやって押しますか。」と言って両腕を体の前方に肩の高さに伸ばす姿勢を示し、更に「普通はこうやって津びていれば触っていますよね。」と述べ、右証言が、目撃した事実を述べたものではなく、推測を述べたことを認めている。

ウ 被告人が押した力によって倒れたという点についても、Bの検察官調書(不同意部分を除く、甲6)では、「私には、△の人が○の人が転倒する直前、押したとか、足を引っかけたとか、そういうふうには見えませんでした。勢いよく視界に飛び込んできて、○の人が滑って転び・△の人が一緒に転んだと思いました。」とあり、この検察庁での供述に問違いはないと述べており、また、検察官の質問に対して「勢いよかったですから、押したというよりも倒れたという感じしかわかりません。」と述べている。

エ 以上の点も含め、他にもBの証言には自分が実際に目撃し、体験した記憶に基づき述べるというよりも、推測により述べているところが見られる。

4 披告人の検察宮調書、警察官調書について

(1) 被告人の警察官調書には、「写真を撮ろうとしたところ、後方から『見えないじゃないか退いてくれ。』と言われたのです。私は、舞台の前から移動して写真を撮ろうとしているのに『退いてくれ。』と言われたので、「前に行って見ればよいじゃない。』というようなことを言ったのです。ここで若干の口論となりごたついたので、私は、『フロントに行って話をしよう。』と言って、若干胸の付近を押したのです。」「Aさんは私が少し押したくらいでそのまま転倒したので、私はAさんの両手を取ったのですが、転倒して、床に頭を打ったのです。」との記載があり、検察官調書には、写真を撮っていたら、「私の後方の廊下の方から、『見えないじゃないか。どいてくれ。』と文句を言われました。それで私は後方を振り返ってみると、私の後方2,3メートルくらいのところに置いてあった椅子に寝転がっていた70歳過ぎくらいの男の人が文句を言っているのが分かりました。そしてその椅子の周囲には2,3人くらいの人が立っておりました。」宴会場は、「舞台の前のあたりは空帝があって、客はどこに座ってもかまわないのですから、私は舞台が見たいのならそんな廊下ではなく、宴会場の中に入ってみればいいのではないかと思い、私に文句を言った男に、「前に行って見ればいいじゃない。』などと言ったのです。するとこの男は『俺はいつもここで見ているんだ。』と言ったのです。私はこの時ビールを中ジョッキで2杯くらい飲んでおり、ほろ酔い加減でしたので、その勢いもあって、その男に文句を言われて腹が立っておりました。それで私はその男に近づきながら・『フロントに行って話をしよう。』と言ったのです。その男も寝そべっていた椅子から起きあがって来ました。その時、私はその男の胸ぐらかその付近を掴んでその男を押したのです。ただ、その男は、私より高齢で弱々しい感じの男でしたから、そんなに強く押したりはしなかったのですが、私に押されて後方に倒れてしまったのです。」との記載があり、いずれも本件暴行行為を自白している。

(2) 検察官調書及び警察官調書の内容について検討するに、いずれの調書の記載も、被告人がAに加えた暴行の態様については具体性に乏しく、また、その内容には次のような疑問点がある。
ア 警察官調書には「若干胸の付近を押した」「少し押したくらいでそのまま転倒した」とあり、検察官調書には「そんなに強く押したりはしなかったのですが、私に押されて後方に倒れてしまった」とあり、いずれも軽く押したら、その位置でAが倒れたという内容になっているが、前記2(2)アで指摘したように、Aが述べるような状況で倒れたならば、少なくとも6メートルは方向転換を伴いながら押して移動していなければならないのに、被告人の説明には、全くその点に触れることがない。

イ 警察官調書の最初には、「口論となり、つかみ含っているうちに転倒して」との記載があるが、これは被告人が一方的にAの胸を押したというのとは矛盾しており、また、同調書添付の報告書には、「A氏と衝突し」と本件が事故であるように書かれているが、これについて、なんらの説明を加えることなく「参考にしてください。」と述べたので添付したことになっていて、いずれも、被告人が本当に本件暴行を認めていたのか疑わしい。

ウ 事件から1年以上経過した時に作成された検察官調書は、警察官調書よりも詳細かつ具体的になっている部分があるが、その加わった部分において、Aが後方2〜3メートルくらいの所の椅子に寝転がっていたと述べるところは、見取図や検証見取図にあるとおり、少なくとも椅子は(A)点より4メートルは離れており、事実と異なっている。

(3) 被告人は、捜査段階で本件暴行行為を認めた理由として、「8月8日に警察で『あの人が勝手に倒れたので、両手を掴んで起こそうとしたら、頭を打っちゃったんだ。』と言ったけれど、警官からぶつからなければ倒れるはずがないと言われ、ぶつかったことになった。警察での供述調書に署名押印をしたのは、刑事が起訴しないからと言ったからで、自分としてはこれで終わりかなと思ったのです。このとき自分は余り喋ってなくて、調書は刑事が適当に作った。(警官に)胸を押してないとも言ってない。」と述べている。また、検察官調書については、「何故署名押印したのかは、分かりません。検察庁でもAを押して倒したとは話していない。検察庁ではその部分をとぱして読んだのではないか。そこは聞かなかった。」と述べる。これらの弁解のうち、「刑事が起訴しないと言ったから」、「刑事が調書を適当に作った」、「検察庁でその部分はとばして読んだ」などと述べるところは、証人Dの証言によってもそのような事実は認められないことや、一番重要な部分を読まないで署名押印を求めだなどというのは、余りに不自然であり、いずれも信用することができない。

しかしながら、Dの証言によれぱ、被告人は警察での取調べの際、当初は押し倒したことを否認し、Dの説得により警察官調書にあるように供述をしたことが認められ、さらに、後の段階で否認のような供述をしたというのであるが、これら被告人が否認の供述をしたことは、調書には全く書かれてなく、結局このことからは・否認をしても聞き入れてくれないと被告人が思ったこと、また、当初の段階では警察でも本件が軽微な事件であり、刑事課で捜査する程のこともない事件であるとされていたものであって、和解ができれば処罰を受けるようなことはないと思わせる態度を警官がとっていたことが十分に想像できるところであって、弁護人が主張するように、お人好しの被告人が、結果的に関わってしまったAの怪我について責任を感じるとともに、Aが一人暮らしで金がないということに同情し、入院費用等を支払い、捜査段階の調書にも捜査官に言われるままに応じて署名押印したということも十分に考えられるところである。

また、被告人は略式命令に応じた理由として、「罰金はいいのですが、傷害ということが嫌なのです。ただ、手をひっぱって傷害罪なんて、おかしいじゃないですか。略式に同意したのは、他の罪名でくると思ったから。交通事故での過失とか、そういうものだと思ったのです。」と述べているが、このような金で済めばという気持で取調べに応じ、捜査官に合わせた適当な供述をしたことも考えられないでもないところである。

(4) 以上によれば、被告人の捜査段階の各自白調書は、いずれもその信用性は低いものといわざるをえない。

5 被告人の公判供述について

被告人は、当公判廷において、次のとおり供述する。すなわち、「私が写真を撮っていると、『見えないからどいてくれ。』という声がして、その後、Aから肩をたたかれた。Aは肩をたたいた後、椅子に戻った。それで『そんなところでは見えないから中に入ってくれ。』といった。すると、Aは『俺はいつもここで見ている。』と言った。それで、マネージャーを呼んできて、中が空いているときは、中で見て貰うように頼もうと思って、フロントに行こうと思い、Aが腰掛けている前を通過しようとしたら、Aが立ち上がった。それから、よろめいて尻餅をついた。頭を二階の通路の方に向けて、2,3歩よろめいて、尻餅をつき、後ろに倒れそうだったので、私は慌てて、両手を掴んだが、Aは後ろにのけぞり、それで、私も引っ張られるような形で、つんのめった。」というものである。

検察官は、被告人の弁解は不自然・不合理であると主張するが、前記2(2)アで指摘したように、本件の転倒前にAが座っていたという位置が見取図[1]であるとすると転倒場所から考えて矛盾が生ずるが、被告人が当公判廷において述べ、当裁判所の検証において指示した、検証見取図(B)点付近であるとするならば、Aが被告人に注意をしたところ被告人から反発を受け、口論となり、更に、被告人が自分の方に近づいてくるのを見て、椅子から立ち上がって、被告人の方を向いて被告人に対応しようとしたということは十分に考えられることであって、その位置から立ち上がろうとしたAが、何らかの原因でバランスを崩し、後方に移動して倒れたという可能性もありえないではない。そして、Bが被告人の腕が伸びているのを見たと証言している点も、被告人がAを助けようと腕を伸ばしてAの両手を魑んだと述べる状況と一致し、バランスを崩して後方に後退し倒れるという状況は、「一瞬の出来事」で「勢いよく倒れた」というBの印象とも相容れないものではなく、被告人が「私も一緒に引きづられてすっ飛んだ」と言うところとも合致し、被告人の弁解もあながち否定しさることはできないものと考える。

なお、検察官は、被告人の供述によれば、Aは立ち上がったときに、被告人の右側に被告人と同方向を向いて立ったことになり、さらに後ろに2,3歩よろめくと、実際とは反対の方向に頭を向けて倒れることになり、現場の状況と合わないと主張するが、これは検察官が被告人の供述を聞き違えているものであって、被告人がAの足が右側を向いていたと言うのは、第5回公判調書中の被告人供述調書添付図面に基づいて右側と言っているのであるから、立ち上がったときに足が右側を向いているのはごく自然であり、その後、Aは被告人の方に向いたというのであるから、90度方向を変えたということが考えられ、その際に何らかのバランスを崩す原因が生じて後退して倒れたというのは何も不自然・不合理ではない。

第4 結論

以上によれば、被告人が被害者の為に入院費用等で40万円を超える金を使っていることや・捜査段階での自白調書作成経緯について不自然な弁解をすることなどを考えると、被告人が被害者に対し公訴事実記載のような暴行を加えた疑いが全くないとまではいえないが、本件で被告人の有罪を窺わせる各証拠にはいずれも問題があって、被告人の被害者に対する暴行を認めるに足りるものではなく、またそれらを総合しても暴行行為を認めるには十分ではないというべきであるから、暴行行為と傷害の結果との問の因果関係についての判断に立ち入るまでもなく、結局、疑わしきは被告人の利益にとの刑事裁判の鉄則にしたがい、本件公訴事実についてはその証明が不十分であって、犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。




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