刑事判例レビュー

公務執行妨害・傷害被告事件において、被害者である警察官の供述の信用性を否定して無罪等を言い渡した事例

季刊刑事弁護25号130-131頁(2000年)


【キーワード】
公務執行妨害における被害者供述の信用性、
目撃証言、人質司法

事件番号 平成一〇年刑(わ)第七七九号
宣告日 平成一一年三月二一二日(確定)
裁判所 東京地方裁判所刑事第三部
裁判官 朝山芳史
検察官 北野彰
弁護人 櫻井光政
参照条文 刑法九五条一項・刑法二〇四条・刑法五四条一項前段・一〇条、刑事訴訟法三三六条・一八一条一項本文

判決のポイント

 本件は、平成一〇年三月一〇日午後一一時頃に、1)被告人Aが、職務質問を行った警察官Cの顔面を殴打する暴行を加えて職務の執行を妨害し、全治三日問を要する傷害を負わせたこと、2)CがAを現行犯逮捕する際に、被告人Bが、同人の襟首をつかみ顔面を殴打して職務の執行を妨害し、全治約三日間を要する傷害を負わせたことを公訴事実とする公務執行妨害・傷害被告事件である。

 現行犯逮捕されたAB両被告人(両者は元夫婦であり同棲中)から逮捕中に選任された櫻井光政弁護士が本件の弁護活動を行った。

 Aは当初より暴行自体は認めていたため、同夜のうちに釈放された。その後は在宅での取調べが行われている。

 他方、Bは、自らの暴行について否認を続けたため身柄を拘束されたまま検察官に送致され、三月二一一日から公訴提起後に至るまで、代用監獄での勾留が継続された(公訴提起後の五月七日に拘置所へ移監)。Bは、当初の取調べでは、暴行の事実を明確に否定した。しかし、警察官から「否認すれば長くなる。認めれぱ公務執行妨害を落として罰金刑で済ませることができる」という誘導がなされたこと、自分が否認を続けることによって釈放されたAが再度の身柄拘束を受けるのではないかとの危惧を抱いたことにより、次第に取調官が提示するストーリーとの「妥協点」を探るようになる。

 接見を行った弁護人が、1)無実である以上は否認を貫くべきであること、2)警察からの取引的な誘導は根拠を欠くものであり迎合すべきではないこと、3)たとえ内容が暖昧なものであっても、自己に不利な方向での調書をとられることに妥協すべきではないことをアドバイスしたが、結局、起訴前勾留の満期に近づいた時期には「殴った記憶はないが、警察官との揉み合いの中でセカンドバックか手の甲が当たったかもしれない」との調書が作成されるに至った。

 AB両被告人は、三月三一日に公訴提起された。判決も示しているとおり、検察官が主張するストーリーを支えていたのは、被害者である警察官Cの証言であった。したがって、公判では、Cによる供述の信用性が主要な争点となった。弁護人は、Cの供述調書を不同意とし、公判廷での尋問において、1)犯行直前および犯行時に現場にいた者の位置関係について、証言内容と現行犯逮捕手続書や実況見分調書の記載とが一致せず暖昧であること、2)犯行の経緯や態様についての証言内容自体が不自然であること、3)被害状況を撮影した写真にBの殴打によるとされる受傷が記録されていないことなどを指摘した。

 また、捜査段階で作成された目撃者Dの供述調書が開示された際、弁護人がD本人と面会して調書を見せたところ、実際の記憶と調書の記載とが一致しないことが判明した。そこで、右調書も不同意とし、公判廷での尋問においては、Aによる殴打行為は一回のみであったことおよびBが暴行を行っていないことを、目撃していた旨の証言を得た(右調書には「Bの殴打行為を見ていない」と記載されていた)。

 裁判所は、弁護人が指摘した前記2)3)の点、および弁護人から1)について指摘を受けたCが納得のいく説明もなく供述を変更した点を挙げて、公判廷におけるCの供述の信用性を否定した。他方、AB両被告人の公判供述については、その内容が合理的であるなどとして、信用性を認めた。なお、検察官は、捜査段階での供述と公判供述との間に変遷があることを理由として、AB両被告人の公判供述の信用性を否定すべきであると主張したが、裁判所は、捜査段階では同じ警察官であるCに不利な供述は録取されない可能性があること、Bが捜査官による誘導に迎合した理由を前提にすると調書における供述は理解できることなどを挙げて、この主張を排斥する判断を示している。さらに、Dの目撃供述についても、AB被告人と顔見知りではあるものの利害関係が薄いことなどから、その信用性を肯定した。

 これにより判決では、1)Aについては、被告人の公判供述に沿って認定したうえでの有罪(なお、弁護人は、正当防衛による無罪を主張したが、否定された)、2)Bについては無罪が言い渡された。櫻井弁護士によれば、Dの目撃供述について、調書に描かれた内容に依拠するのではなく、本人に内容を確認したうえで、証人尋問によって、AB両被告人の供述と合致する内容の証言を得ることができたことが、弁護活動を成功させた最も重要なポイントであったという。また、Cの供述の暇疵を効果的に突く反対尋問がなされたことや、捜査段階で明確な内容の自白をとられなかったことなどの弁護活動がそれぞれ功を奏し、妥当な判決を導いたといえよう。

 もっとも、本件は、職務質問の現場で警察官と揉み合いになった結果、もっぱら警察官の「なめられてはいけない」(弁護人の弁論要旨より引用)という意識によって、公務執行妨害として立件されてしまった事案であり、すべての被疑者・被告人が本件のように効果的な弁護を得られる状況にはない以上、日常的に発生しうるタイプの冤罪事件であるように思われる。本件の経過は、捜査機関の「身内」である被害者の供述と、刑罰や身柄拘束による不利益を背景に取引的な迎合を迫ったうえで生成された自白とによってフレーム・アップがなされる過程を示しており、わが国の刑事司法や警察活動が抱える問題性を如実に示す事件であったといえよう。

 本稿の執筆にあたっては、櫻井光政弁護士(第二東京弁護士会)から、詳細にわたるご教示をいただいた。記して謝意を表する。

中島宏(なかじま・ひろし/立教大学法学部助手)


判決文

【主文】

 被告人Aを懲役一〇か月に処する。
 同被告人に対し、この裁判が確定した日から二年間刑の執行を猶予する。
 訴訟費用中、証人Dに支給した分の二分の一は同被告人の負担とする。
 被告人Bは無罪。

【理由】

(犯罪事実)

 被告人A(以下「被告人A」という。)は、平成一〇年三月一〇日午後一一時ころ、東京都目黒区上目黒三丁目六番一号前路上において、同所を通行中の自動車の同乗者と口論をしていた際、制服姿で警ら中の警視庁目黒警察署勤務の巡査C(当時二五歳)から、白己や被告人B(以下「被告人B」という。)が職務質問を受けた際、同巡査からセーターの襟首をつかまれて行動を制止されたことに激高し、Cに対し、右手拳で同人の顔面を一回殴打する暴行を加え、同人の職務の執行を妨害するとともに、右の暴行により、同人に全治約三日問を要する口内挫創の傷害を負わせた。

(証拠)

1被告人Aの公判供述
2被告人Aの検察官調書、警察官調書(二通)
3被告人Bの公判供述
4被告人Bの検察官調書、警察官調書(検察官請求証拠番号乙二、三)
5証人C及び同Dの公判供述
6警察官作成の実況見分調書(同意部分)

(事実認定の理由)

 一 検察官は、被告人AがC巡査の顔面を二回手拳で殴ったと主張する。これに対し、弁護人は、被告人Aは、C巡査が同被告人の襟首をつかんで放さなかったため、やむなく殴打したものであり、C巡査の右の行為は、適法な職務の執行に当たらず、被告人Aの暴行とC巡査の傷害との因果関係がないと主張し、被告人Aも、公判廷において、これらに沿う供述をする。そこで、判示のとおり認定した理由を説明する。なお、本件各公訴事実は、相互に密接に関連しているので、以下必要に応じて、被告人Bの行為に関する事実認定にも及ぶことがある。

 二 前提となる事実

 以下の事実は、証拠上明らかに認められ、かつ、検察官及び弁護人にも概ね争いがない。

 1 被告人Bは、暴力団国粋会I一家エ組の若頭として活動していたものであるが、平成九年一月一三日に東京地方裁判所において、覚せい剤取締法違反の罪により懲役一年二月に処せられ、平成一〇年二月一日、右刑の服役を終えて、出所した。被告人Bは、かつて被告人Aと婚姻していたが、平成八年三月八日、同女と離婚し、右の服役後は、再び同女と同棲していた。

 2 被告人Bは、平成一〇年三月一〇日(以下、年月日は全て平成一〇年である。)午後九時ころまで、居酒屋で友人の乙、同人の知人のD及び丙、被告人Aの五名で飲食した。Dは、被告人Bと会うのはこの時が一二、三年ぶりで、二度目であり、被告人Aとは初対面であった。その後、被告人Bらは、目黒区中目黒にあるスナックで約一時間半にわたり飲酒した。最初の居酒屋では、被告人Bが焼酎の水割りを五、六杯、被告人Aが焼酎の水割り五、六杯飲み、次のスナックでは、被告人Bが焼酎サワーを五、六杯、被告人Aが焼酎の水割り一杯を飲んだ。

 3 同日午後一一時ころ、被告人Bらは、乙を残してスナックを出て、乗用車で帰宅するため、駐車場所まで歩いていたところ、本件現場である交差点にさしかかった。被告人Aが路地から左折して出てきた乗用車とぶつかりそうになったので、「危ねえな、この野郎。」などと怒鳴ったところ、同車の助手席に同乗していた者と口論となった。

 4 警視庁目黒警察署勤務の巡査Cは、同日夜、同署中目黒交番で警ら勤務に従事していたところ、同日午後一一時ころ、通行人からの喧嘩の通報により、自転車で本件現場に駆け付けた。C巡査が事情を聴取しようとしたところ、被告人両名がC巡査に「お巡りには関係ねえだろう。」などと言った。この問に、被告人らが口論していた乗用車は、走り去った。その後、C巡査と被告人Bが押し問答となり、両名の間にDが割って入った。この間に、C巡査が乗ってきた自転車が倒れた。

 5 その後、被告人AがC巡査に近づき、右手拳で同巡査の顔面口元を、少なくとも一回殴打した(殴打の回数については、争いがあるので、後に判断する。)。C巡査は、被告人Aを公務執行妨害の現行犯人として逮捕する旨告げ、制服の肩に挟んである無線のマイクで、本署に応援の要請をした。

 6 被告人Aは、路上に倒れ、しばらく倒れたまま起き上がらなかった。これを見て、被告人Bが、「うちの女房に何をする。」などと言って、C巡査に詰め寄ったが、駆け付けた目黒警察署員に取り押さえられ、公務執行妨害の現行犯人として逮捕された。

 7 一連の経過の中で、C巡査は、口唇内の二か所に挫創の傷害を負い、制服の最上部のボタン一個が取れた。C巡査は、翌一一日、都立広尾病院で受診した結果、右下顎部打撲、口内挫創により全治三日との診断を受け、口内挫創については投薬治療を受けたが、右下顎部打撲については触診を受けた程度で投薬治療を受けなかった。

三 C巡査の証言について

 1 本件各公訴事実に関する検察官の主張に沿う証拠としては、部分的にDの証言があるものの、その主たるものは、C巡査の証言であるから、本件各公訴事実が認められるか否かは、もっぱら右証言の信用性にかかっている。

 2 C巡査は、本件の被害状況等について、要旨次のとおり証言する。

 1) 私が、本件現場に駆け付けたところ、被告人Bが「お巡りには関係ねえだろう。」「おれはやくざだ。」などと言いながら詰め寄り、Dも「まあまあ」と一言いながら、二人がかりで私を押してきた。この時、被告人Bは、両手をポケットに入れ、私の左肩に体の前面を当てるようにして、押してきた。このため、私は、四、五メートル後ずさりした。

 2) この時、被告人Aが私の乗ってきた自転車を一〇センチくらい持ち上げて、投げるのが見えた。「何をするんだ。」と私が言ったところ、被告人Aが小走りで近寄ってきた。私は、無線のマイクで応援要請をしようとしたが、マイクを持っている左手をDにつかまれて、口元から遠ざけられたので、できなかった。

 3) この直後、私は、被告人Aに二回殴られた。被告人Aは、「うるせえ、お前。」と言いながら、私の正面左斜め前にD、正面やや右寄りに被告人Bが立っている間から、右手拳でストレートで立て続けに同じ場所を殴ってきた。私は、首を左にそらせてよけようとするのが精一杯で、口の右の方に拳が当たった。

 4) 私は、その後、無線機を使って、応援要請をしてから、被告人Aに「公務執行妨害の現行犯人として逮捕する。」と告げ、その左手をつかんだ。被告人Aは、振りほどこうとして、腕を回していた。

 5) この時、被告人Bが、「何が逮捕だ。ふざけんじゃねえ。おれの女房に何しやがる。」と叫び、両手で私の制服の襟元付近をつかんで、前後に揺すった。このため、私の制服の一番上のボタン一個が取れた。その次の瞬間、私は、被告人Bに左手拳で右下あごをフックで一回殴られた。この時、被告人Bは、セカンドバッグを持っていなかった。

 6) その後、私は、左腰に付いている緊急発進信ボタンを押し、被告人Bに「逮捕する。」と告げ、左手でその右腕をつかんだ。私は、K巡査部長が到着してから、被告人Bを同巡査部長に任せた。

 7) 被告人Aは、私に左手をつかまれたまま、「お巡りにやられた。」と一言いながら、地面にしゃがみ込み、地面に足を延ばして座り込んだ。それから、被告人Aは、サンダルを脱いで投げつけ、「畜生、お巡り」と言って、仰向けに寝ころんだ。私は、被告人Aの身体を押したりしていない。

 3 以上のC巡査の証言内容を検討すると、まず、最初に近づいてきた者が誰かという点について、同巡査は、いったん1)のとおり証言しながら、後に、現行犯人逮捕手続書では、被告人両名が近づいてきたと記載していると指摘されると、そちらの方が正しいと思うと証言を訂正し、再度、現行犯人逮捕手続書の記載が誤りで、1)の証言内容の方が正しいと証言している。この点に関するC巡査の証言が信用しがたいことは、明らかである。

 3)の点については、身長一六一センチメートルで、女性の被告人Aが、被告人BとDが立っている間から身長一六八センチメートルの被告人Bの肩越しに殴ってきたというのであるが(甲一二の写真11及び13参照)、被告人両名の身長差等からすると、被告人Aが被告人Bの肩越しにC巡査の顔面にストレートのパンチで殴打するというのは、物理的に困難ではないかと思われる。また、柔道の心得のあるC巡査が、不意を打たれて被告人Aのパンチを一発浴びるということはあり得るとしても、二発も同じパンチを浴びるというのは、不用意といわざるを得ない。同巡査は、一発目のパンチを浴びた後、二発目のパンチが来るか被告人Aの動きを目で追っていたが、二発目のパンチをよけきれなかったと証言するが、にわかに信用できない。同人の唇内が二か所切れていたとしても、一回の殴打によってできたとみることは十分可能である。

 また、C巡査は、被告人両名とDの位置関係について、いったんは3)のとおり証言しながら、甲二一の写真11及び12を示されると、被告人BとDの位置が逆であると証言しており、証言を変更したことについて納得のいく説明をしていない。この点は、被告人Aの暴行の態様とも関連する点であるだけに、単なる言い間違いとして看過しうるものではない。なお、C巡査は、甲六の実況見分調書において、「参ア」を丁「参イ」を甲としているのは、自分が「参ア」を甲、「参イ」を丁と指示したのに、作成者のS巡査部長が誤って記載したものであると証言する。しかし、実況見分の専門家である警察官が同僚の警察官の指示説明を取り違えて記載するということは考えがたいから、右の点は、C巡査が証言時とは異なった指示説明を実況見分の際に行ったと考えるほかなく、その後、被告人Bの横にいたのがDであると判明したために、C巡査がこれに合わせて供述を訂正するに至ったのではないかと推認される。

 次に、5)のうち、被告人BがC巡査の制服の襟元付近をつかんで揺すったという点に関しては、同巡査の制服の一番上のボタン一個が取れており、一応裏付けがあるといえる。しかし、被告人Bが左手拳で同巡査の右下あごを一回殴ったという点については、右下顎部打撲という医師の診断はあるものの、同巡査の受傷直後の写真(甲一三の写真1,2)によっても確認されておらず、客観的な裏付けがあるとはいえない。

 さらに、7)における被告人Aの行動は、同巡査によれば、野次馬向けのパフォーマンスということになるのであろうが、同巡査を殴った被告人Aが「お巡りにやられた。」と言うのは、余りにも一方的な印象を与える上、この点に関する被告人Aの公判供述と比較すると、著しく不自然である。

 四 被告人Aの暴行について

 1 被告人AのC巡査に対する暴行に至る経緯及びその態様について、検討する。C巡査の証言する被告人Aの殴打行為が、そもそも物理的に困難であることは、既にみたとおりである。

 2 C巡査の証一言によれば、被告人Bが「お巡りには関係ねえだろう。」などと一言いながら、同巡査に詰め寄っているのに加勢する意図で、被告人Aがいきなり同巡査の顔面を殴りつけたことになるが、いかに被告人Aが酒に酔っていたとしても、相手が制服を着用した警察官であると認識していたのであるから、これに向かっていきなり殴りかかるというのは、余りにも無謀な行動である。また、被告人Bが刑務所を出所したばかりであったので、「また身柄を持って行かれると思うと、無意識と言ってもいいくらいに、後先のことを考えず、その警察官に向かっていき、想わず、右のげんこつで警察官の口の付近を一回殴ってしまった。」という被告人Aの警察官調書(乙九)における供述についても、警察官に向かって行く心境としてはともかく、警察官を殴打する理由としては薄弱というべきである。これに対し、被告人Aが検察官調書(乙一一)及び公判廷で供述するように、C巡査が被告人Aの襟首をつかみ、放してくれと言っても放してくれなかったため、憤激の余り、右手拳で一回同巡査の顔面を殴打したというのは、同巡査に対する殴打の理由として合理的なものである。

 右の点は、確かに供述の変遷があるように見え、検察官は、このことを理由として、被告人Aの公判供述が信用できないと主張する。この点について、被告人Aは、公判廷において、当初の三月一一日の取調べの際には、体に痛みがあり、医者に早く行きたかったので、調書の内容もぱらぱら見た程度で、よく確認もせずに署名指印をし、三月一五日の取調べの時には、前回述べているだろうと思い、特に述べなかったが、検察官の取調べの時には、最初から経緯を聞かれたので、そのまま述べたと供述している。被告人Aの警察官調書(乙九、一〇)が、C巡査の所属する目黒警察署の警察官によって録取されていることからすると、取調べに当たった警察官がC巡査に不利な被告人Aの供述をそのまま録取しなかったということは、あり得ることであって、被告人Aの右の公判供述も、あながち排斥することはできない。そうすると、被告人Aの捜査段階における供述の食違いは、被告人Aの供述の変遷ととらえるべきではなく、これに基づいてその公判供述の信用性を否定するのは適当でない。結局、右の点は、前記のとおり、C巡査の証言が信用できず、被告人Aの公判供述の信用性が認められる以上、これに基いて認定するのが相当である。

 なお、この点について、Dは、C巡査が被告人Aの襟首をつかんでいる気配はなかったと証言する。しかし、Dは、被告人Bを背にしてC巡査と向き合い、専ら被告人BがC巡査を加えないよう制止することに関心があったものであり、C巡査と被告人Aとのやりとりについてはさほど関心がなかったのであるから、被告人Aに関する証言は暖昧であって、その信用性が高いとはいえない。他方、Dは、C巡査が逮捕すると言った後に、被告人Aが「痛い、引っ張るなよ。」と言った旨証言するが、Dは、C巡査が逮捕すると言った後に、特に被告人Aの手をつかんだりしたことはないとも証言しており、そうだとすると、Dは、被告人AがC巡査を殴る前に「痛い、引っ張るなよ。」と言ったのを、C巡査が逮捕すると言った後に言ったと混同している可能性があると考えられる。

 3 そして、被告人AのC巡査に対する殴打行為の回数については、前記のとおり、柔道の心得のある同巡査が、女性のパンチを二発立て続けに浴びるというのは、いささか不自然であること、同巡査の口唇内の二か所の傷も、一回の殴打によって生じたとみる余地があること、Dも被告人AのC巡査に対する殴打行為は一回のみであったと証言していることからすると、それが二回あったとは認めがたく、被告人Aが自認する一回の限度で認めるのが相当である。

(法令の適用)

一 罰条
  公務執行妨害の点 刑法九五条一項
  傷害の点 刑法二〇四条

二 科刑上一罪の処理
  刑法五四条一項前段、一〇条(重い傷害罪の懲役刑で処断)

三 刑の執行猶予 刑法一一五条一項

四 訴訟費用の一部負担
  刑事訴訟法一八一条一項本文

(弁護人の主張に対する判断)

 弁護人は、被告人Aは、C巡査が職務質問の際に同被告人の襟首をつかんで放さないという違法な暴行を加えたため、これに対する防衛行為として、顔面殴打の暴行を行ったのであるから、正当防衛により無罪であると主張する。しかし、当時、被告人Aは、酒の勢いも加わり、被告人Bと一緒になって、「お巡りには関係ねえだろう。」などと言って、同巡査に食ってかかっていたのであるから、同巡査が職務質問を続行するために、被告人Aの行為を制止しようとしたこと自体は正当であり、同巡査が被告人Aの丸首のセーターの襟首をつかんだ行為は、被告人Aを制止するために必要であり、格別危険な行為ではないから、未だ職務質問の際に許される有形力行使の範囲を超えるものではなく、これをもって適法な職務の執行に当たらないとはいえない。したがって、C巡査は、未だ急迫不正の侵害には当たらないから、被告人Aの殴打行為は、正当防衛として違法性を阻却されないと解すべきであって、弁護人の主張には理由がない。

(被告人Bの無罪の理由)

一 公訴事実の要旨

 被告人Bは、前記日時及び場所において、被告人Aを公務執行妨害の現行犯人として逮捕しようとしたC巡査に対し、「何が逮捕だ。ふざけんじゃねえ。」などと怒号しながら、同人の襟首を掴み、左手拳でその顔面を殴打する暴行を加え、同人の職務の執行を妨害するとともに、右暴行により、同人に全治約三日間を要する右下顎打撲の傷害を負わせた。

二 判断の方法について

 以下においては、被告人Aに対する事実認定の説明を前提とし、主として、その後の経過について検討する。

三 被告人Aが転倒した経緯について

 1 被告人Aの行動に関するC巡査の証言は、前記のとおり、同巡査に左手をつかまれたまま、地面にしゃがみ込み、座り込み、仰向けに寝ころぶというものであるが、内容自体不自然なものであって、到底信用しがたい。

 2 これに対し、被告人Aは、検察官調書(乙一一)及び公判廷において、C巡査からセーターの襟首をつかんでいた手を放されると同時に、左肩を突き飛ばされたので、サンダルを履いていたこともあり、バランスを崩してその場に倒れてしまったというのであり、自然な内容ということができる。また、Qの証言によれば、被告人Aは、一二月一三日にQ接骨院で治療を受け、左肩部打撲、左腰部打撲の診断を受けているところ、被告人Aは、公判廷において、右の傷害を負った原因として、本件で逮捕後目黒警察署に引致された時に警察官から足払いをかけられて尻餅を付いたとも供述するが、少なくとも、左肩部打撲に関しては、C巡査による突き飛ばし行為以外には考えがたいところである。さらに、被告人Bは、捜査段階及び公判廷において、被告人Aが転倒したので、被告人Bが「おれの女房に何をする。」などと怒鳴ってC巡査に詰め寄ったと供述するところ、これは、被告人Aの右供述と付合している。したがって、被告人Aの右供述には裏付けがあり、信用性があるものと認められる。

四 被告人Bの暴行について

 1 被告人BのC巡査に対する殴打行為に関する証拠としては、同巡査の証言があるのみである(Dは、そのような行為がなかった旨証言し、被告人Aは、倒れていたため見ていない旨供述する。)。被告人Aの殴打行為によっても、C巡査には判示の傷害が生じているのであるから、同女より力が強いと思われる被告人Bが同巡査を殴打したとすれば、右の傷害と同程度かそれ以上の傷害が生じ得ると考えられるが、前記のとおり、同巡査の右下顎部打撲の傷害は、受傷直後の写真によっても裏付けられていない。結局、右の傷害は、同巡査の愁訴に基づくものと考えるほかなく、同巡査の右証言は、信用できないといわざるを得ない。

 この点について、被告人Bは、捜査段階の初期の供述調書(乙一、二)及び公判において、殴打行為をしたことは否認しているが、捜査段階の後半の供述調書(乙三、四)においては、C巡査と揉み合いになって、左腕を前後に振るように動かした際に、セカンドバッグか手の甲が警察官の顔に当たったかも知れないと供述する。これらの調書においても、被告人は、警察官を殴るつもりで殴ったのではないと供述しており、右の供述は、内容自体暖昧であって、信用性が高いものではない。この点について、被告人Bは、公判廷において、公務執行妨害、傷害の被疑事実を傷害に落としてもらい、罰金で済ませてもらいたいという期待から、捜査官に迎合した供述をしたが、故意に殴ったことはどうしても認めることができなかったと供述するところ、右の警察官調書(乙三)及び検察官調書(乙四)における供述は、被告人Bの右の公判供述を前提とすると、よく理解しうるものである。

 また、本件当時、被告人Bがセカンドバッグを左脇に抱えていたことは、被告人Bの供述及びこれに符合するDの証言により認められるところ、セカンドバツグを左脇に抱えたまま左手拳で相手の顔面を殴打することが困難であることは明らかである。C巡査は、この時被告人Bがセカンドバッグを持っていなかったと断言するが、同巡査は、被告人Aから殴られるという異常な事態に遭遇して、本署への無線連絡等に追われて、冷静でいられたかは疑問であり、被告人Bがセカンドバッグを持っていたか否かというような細かい点まで注意を払っていたとは到底考えられない。

 以上によれば、被告人BがC巡査を殴打したとは認められない。

 2 被告人BがC巡査の制服の襟元付近をつかんで揺すったか否かという点に関しては、前記のとおり、同巡査の制服のボタンが取れているので、この点に関する同巡査の証言は、裏付けられているかのようである。

 しかし、C巡査の証言は、既にみたとおり、いくつかの点について暖昧である上、被告人Aの殴打行為の回数、被告人Aに対する突き飛ばし行為の有無、被告人Bの殴打行為の有無等の重要な点がことごとく信用できないのであるから、その影響は他の部分にも及ぶと考えざるを得ず、被告人Bが制服の襟元付近をつかんで揺すったという点に限って信用性が高いとは考えがたい。また、被告人Bは、前記のとおり、本件当時セカンドバッグを左脇に抱えていたと認められるところ、C巡査が証言するように、両手で制服の襟元付近をつかんで前後に揺するということは、セカンドバツグを左脇に抱えたままでは、不可能ではないにしても、かなり難しいといわざるを得ない。翻ってみると、C巡査が無線のマイクで応援要請をしようとした際に、Dがマイクを持っている同巡査の左手をつかんで口元から遠ざけようとした事実や、被告人AがC巡査に襟首をつかまれた際、放させようとして、同巡査の制服を引っ張った事実が認められるから、こうした本件の一連の揉み合い等の経過において、C巡査の制服のボタンが取れたという可能性も考えられないではない。

 被告人Bは、検察官調書(乙四)において、「私は、かなり酒を飲んで酔っぱらっておりましたので、細かいところは思い出せないのですが、右肘を警察官の胸辺りに当てて押すようにして揉み合いになったことは、間違いなく覚えています。また、右肘で押す前に、右手で警察官の襟首辺りを掴んだような気もしますが、これははっきりしません。」と供述するのに対し、公判廷においては、右肘でC巡査の胸辺りを押したことはあるが、同巡査の襟首辺りを掴んだ記憶はないと供述し、この点を否認している。右の検察官調書における供述も、極めて暖昧なものである上、被告人Bは、それ以前の取調べにおいては、この点を否認していたのであるから、右の供述は、到底信用性のある自白とはいえない。

 また、Dも、被告人BがC巡査の襟元をつかんだのは見ていないと、被告人Bの供述に沿う証言をする。Dは、被告人Bの友人である乙の運転手をしていた者であるから、被告人Bに好意的な証言をする傾向があることは否定できないが、被告人Bとは一二、三年前に一度会ったことがある程度であるから、それほど強い利害関係はなく、かつ、被告人Aには不利な証言もしているのである。したがって、Dの右の証言も、信用性が低いとはいえない。

 以上を総合すれば、被告人BがC巡査の制服の襟元付近をつかんで揺すったと認めるには、合理的疑いが残るというべきである。

五 結語

 よって、被告人Bについては、本件について犯罪の証明がないから、刑事訴訟法三三六条に従い、無罪の言渡しをする。




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