長期にわたる判手続きの停止と「手続き打切り」の可能性

−奥深山事件・公判手続停止から21年、起訴から30年が経過した事例−

法学セミナー577号76-80頁(2002年)


跡見学園女子大学専任講師 中島宏



はじめに

一九七二年一二月二〇日、最高裁判所大法廷は、一五年にもわたり裁判所に係属した刑事事件(高田事件)について、免訴により手続きを打ち切った(刑集二六巻一〇号六三一頁)。この判決は、長期にわたる裁判からの救済をめぐる議論の到達点として評価され、司法が被告人の権利保障のために法形成機能を持ちうることを示した成功例と位置づけられる。

一九八○年一二月一七日、最高裁判所第一小法廷は、いわゆるチッソ川本事件について、公訴権の濫用を理由として公訴棄却する余地があることを一般論として認める判示をした(刑集三四巻七号六七二頁)。濫用と評価すべき場合について、極めて制限的な態度を示したため批判に晒されたが、検察官の広範な訴追裁量に対して司法的なコントロールが及ぶことが明らかにされたという点では、これも(方法論としての)デュー・プロセス論がもたらした、ひとつの成果であるといえよう。

これらはいずれも、わが国の刑事訴訟実務の中で、いわば「判例法」として認知され固定化した。それに伴って、これらの事件で中心的なテーマとされた「長期にわたる裁判から特定の被告人を具体的に救済する方法」や「不当な訴追から被告人を解放する方法」についての議論は、判例理論の射程や具体的な適用方法について様々な課題を残していたにもかかわらず、急速に沈静化していく。迅速な裁判については、具体的な救済よりも、長期未済事件の発生を防ぐための制度設計のほうへと焦点が移っていくこととなった。公訴権濫用論についても、検察官の裁量権行使への信頼を背景に、労働・公安事件の現象に従って実践面での切実さが薄れていった。その後、刑事訴訟法の「相対的安定期」といわれた時代を経て、これらとは別の新たな立法課題へと実務と学界の視点が移りつつある今日、これらの問題は、もはや学生が教科書の中で学ぶだけの「過去の議論」に過ぎないのだろうか。

本稿では、東京高裁に係属中の、ある殺人被告事件を取り上げて、そのあるべき処理方法を検討してみたい。この事件には、「過去の議論」が解決できないままに残していった問題が具体的・現実的な課題として横たわっている。

裁判の経緯

一九七一年一一月一四日、東京・渋谷で、沖縄返還協定批准に反対する運動として、中核派らを含む学生や労働者などが、禁止されていたデモを行った。当日の渋谷は機動隊が出動して厳戒態勢がとられていた。火炎ビン、鉄パイプを持って行われたデモは、機動隊と激しく衝突し、その渦中で、デモ参加者と機動隊とに、それぞれ一名の死亡者が出た(いわゆる渋谷事件)。警備中の警察官が武力闘争に巻き込まれて殉死した事案であるため、後藤田警察庁長官や本多警視総監(いずれも当時)が、事件の解決に向けた積極的な捜査活動を強く命じた。組織を上げて行われた捜査は、翌七二年になってから急展開することとなる。二月二日、高崎経済大学などからデモに参加した「活動家」が一斉に別件(現住建造物放火罪など)で逮捕され、殺人の犯人の絞り込みが行われた。そして、その中の一人であった本件の被告人・奥深山(おくみやま)幸男氏は、二月二二日に、主犯として特定され殺人罪で再逮捕、三月二二日に起訴された。

東京地裁での第一回公判は、一九七三年九月二五日に行われた。被告人は、この後一貫して無罪を主張する。このときすでに、長期にわたる勾留の影響による拘禁反応が見られたようであるが、翌七四年になると、被告人は、反応性うつ状態の症状を示し、公判や弁護人との接見においても妄想による言動を示すようになる。しかし、その後も保釈が許可されないまま勾留され続け、その問、懲罰房や保護房に入れられるなどしたことも影響し、症状は悪化していった。東京地裁は、逸見武光・束京大学助教授に精神鑑定を命じ、六月三日に提出された鑑定書の結果を踏まえて、六月五日に勾留執行停止の決定をした。これ以降、被告人は病院の精神科に入院して治療を受ける。七五年には保釈が許可されたが、被告人の症状は悪化し続ける。七九年八月には、当時の主治医であった金村元医師から「拘禁性精神病−精神分裂症型」であるとの上申書が出された。その後も、被告人は、厩橋病院に入院して春日功医師の治療を受け続ける。症状の悪化による公判期日の変更を繰り返しつつも訴訟は進行し、一〇月二三日、懲役一五年を言い渡す第一審判決が出された。

被告人が控訴したことにより、本件は東京高等裁判所に係属する。第一審の実刑判決によって、被告人は東京拘置所に収監されたが、翌日に保釈された。検察官が抗告したが、「今後とも引き続き従来の信頼し得る精神科医との治療的人問関係を基礎に治療的雰囲気のもとで時宜を得た適切な精神療法及び薬物療法を受ける必要があり」「いまだ未決の拘禁に耐え得ない状態にある」として棄却され、被告人は治療のため再入院することとなる。その後も、被告人の統合失調症一精神分裂病一の症状は「固定化」された。そして、八一年七月一五日、東京高裁は、弁護人からの申し立てを受けて、被告人は訴訟能力がない状態であると判断し、刑訴法三一四条一項による公判手続きの停止を決定した。

それ以降、今日までの問、本件の公判手続きは停止されたままである。弁護人は、この問、公訴棄却もしくは免訴による手続きの打ち切りを裁判所に求めてきた。しかし、裁判所はこれに応答せず、本件は放置されてきた。二〇〇一年八月になってようやく、主治医である春日医師の証人尋問が行われ、公判手続停止後から現在までの被告人の病状についての審理がなされた。春日医師からは、被告人の病状は好転せず、むしろ悪化しており、訴訟能力が回復する見込みが乏しいとの証言がなされている。ところが、二〇〇二年三月、いわばこの証言に対抗する形で、検察官は、被告人の訴訟能力は回復しているとの立場から保釈および公判手続停止決定を取り消して審理を再開するよう求める意見書を裁判所に提出した。これを受けて、現在、東京高裁は改めて被告人の訴訟能力についての鑑定を命じている。

起訴から三〇年、公判手続停止から二一年を経過した刑事事件の被告人について、[1]訴訟能力の回復を認めて審理を再開すべきだろうか。[2]訴訟能力の回復が認められない場合に公判手続きを停止したまま訴訟係属を維持すべきなのだろうか。また、[3]仮に訴訟能力が回復したと判断される場合であっても、この先さらにこの裁判を続けることが妥当なのだろうか。これが本件の争点である。

訴訟能力について

本件の裁判が、起訴から三〇年もの長期に及んでいる直接の理由は、控訴審において、被告人が、刑事訴訟法三一四条一項にいう「心神喪失の状態」にあるとして、公判手続きが停止されていることである。いうまでもなく、ここでの「心神喪失」は、行為時における被告人の責任能力を評価する刑法三九条一項のそれとは区別された手続法上の概念であり、「被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当な防御をすることのできる能力」(=訴訟能力)を欠く状態であると解されている(最決平成七年二月二八日刑集四九巻二号四八一頁)。訴訟能力を欠く場合は、(個々の訴訟行為ごとの有効・無効の判断を行うまでもなく)訴訟の続行じたいが許されない。

いくつかの判例では、耳が聞こえず、ことばを話せないなどの事情(および、それに伴う二次的な精神遅滞)により訴訟行為の内容を説明することが困難な場合について、訴訟能力があるといえるか否かが争われている。そこでは、訴訟能力については、被告人の弁別能力そのものだけではなく、訴訟関係人との問で防御のために必要なコミュニケーションをとれるか否かという視点からも考察すべきであるとの立場(*1)が支持されており、コミュニケーション能力(ないし意思伝達能力)が欠如する場合には、訴訟能力がないものとして、公判手続きが停止されている。なお、コミュニケーション能力という側面に注目する場合には、被告人単独での能力だけで判断するのではなく、弁護人などの支援や裁判所の後見的措置によって補充されうることもあろう(最判平成一〇年三月一二日刑集五二巻二号一七頁)。

本件でも、第一審の段階から、被告人の妄想による言動が訴訟そのものに対して向けられており、防御のために必要なコミュニケーションが可能とは言い難い状況が存在したといえるだろう。ただ、控訴審の公判手続停止決定も述べているように、本件は、聴覚障害などの事情を中心に考察した右の判例とは異なり、被告人が統合失調症病を患っていることから白己の利害を弁別する能力そのものが失われている事案である。すなわち、コミュニケーションが可能か否かを論じるまでもなく、より根元的な「被告人の弁別能力」そのものを問題にして「心神喪失」との結論を導きうる事案なのである。したがって、本件被告人の訴訟能力は、最高裁平成一〇年判決の事案とは異なり、弁護人などの活動や裁判所の後見によって補充されうるものではないことに留意しなければならない。

本件の被告人については、東京高裁が行っている新たな鑑定によって、現時点における訴訟能力が判断されることとなる。しかし、統合失調症と訴訟能力との関係についての判断には、必ずしも豊富な先例があるとはいえない。検察官は、被告人が公判手続きの停止中に、農園において作業に従事するなど開放的な治療を受けていること、銀行口座を管理したり俳句を作るなどの知的作業をしていることなどから、訴訟能力が回復したとの判断をしているようである。だが、日常生活における断片的な行動や、病気の存在を前提にしたうえでその進行を止めるために行われている治療目的の活動における判断能力から、刑事裁判における防御活動に必要な判断能力の存在を推定することには無理があるだろう。最高裁平成一〇年判決は、社会内での適応状況と関連づけて「訴訟能力あり」との結論を導いている。しかしそれは、右判決の事案においては、外部からのサポートによって補いうる「コミュニケーション」の部分が中心的な検討対象であったことに起因する判断であるから、本件が追従すべきではない(*2)。鑑定人は、刑事被告人とされることによってかかる負担の大きさを十分に理解したうえで、その下で必要される判断能力に焦点を絞って慎重に検討すべきである。また、現時点において訴訟能力が回復していないとされる場合は、後述する手続きの打ち切りとの関係で、将来における回復の見込みについても検討されなければならない。そして、本件において、被告人としての地位に置かれていることじたいが病気を進行させる原因の一部であるとすれば、被告人の病状が辿った経過全体を含めた考察がなければ、訴訟能力の回復可能性の正しい認定は、不可能というべきであろう。公判手続きの停止から二一年という年月が経過していること(その問、被告人は、信頼関係のある医師の下での治療を継続しているにもかかわらず、病状が好転しているとはいえないこと)そのものが、回復の見込みの乏しさを明らかに示す有力な事情といえるのでなかろうか(*3)。

手続き打切りの可能性−訴訟能力が回復しない場合

訴訟能力が回復する見込みがないとされた場合、裁判所はどのような対応をすべきであろうか。公判手続きを停止したまま、被告人を永久に放置することが妥当でないことは論を待たない。そして、当事者主義構造の刑事訴訟においては、そのような場合、訴追の主体は検察官であるから、第一次的には、検察官が刑訴法二五七条によって公訴を取り消すことを求められるとされてきた。検察官が公訴を取り消さない場合には、その訴追を維持していることが違法であるとして、裁判所が、刑訴法三三八条四号による公訴棄却の判決を言い渡す。すなわち、いわゆる公訴権濫用論(起訴猶予基準から逸脱した公訴提起を問題とする類型)の応用場面として、「濫用的に公訴を維持していること」に対する批判の意味を含んだ形式裁判がなされるのである。

ところが、二五七条は公訴取り消しの時期を「第一審の判決があるまで」に限定している。控訴審において被告人の訴訟能力が失われた本件においては、たとえ訴訟能力の回復が不可能であることが明らかになっても、その時点で検察官が公訴を取り消すことはできないのである。そうだとすると、検察官が公訴を維持していることに対して批判的な評価をすることは不可能であり、訴追裁量の濫用を理由に公訴棄却を導く理論的な基礎は存在しないことになってしまう。ここには、伝統的な公訴権濫用論の枠組みの一つの限界が表れているといえるだろう。

一九九〇年代には、従来は公訴権濫用論の応用的な場面として論じられてきたことを、それとは異なる新たな枠組みによって処理しようとする学説が提唱された。たとえば、公訴提起行為の違法性には還元できないが、訴訟そのものが不当であると評価できる場合には、訴訟条件のもつ「実体判決阻止機能」によって形式裁判が導かれるとする主張(*4)や、政策的あるいは救済的な側面から正義を増進するために必要とされる場合は、手続きを打ち切ること二〇)ができるとする主張(*5)がある。いずれも、検察官による公訴提起や公訴の維持に対する「批判」という構成を経由せずとも、より直載的に裁判所が主体となって訴訟を打ち切ることが可能であるとする考え方である。本件は、まさにそのような、裁判所による主体的な打ち切りが正面から要請されている事案であるといえよう。

前掲の最高裁平成七年決定には、一その後も訴訟能力が回復されないとき、裁判所としては、検察官の公訴取消しがない限りは公判手続を停止した状態を続けなければならないものではなく、被告人の状態等によっては、手続を最終的に打ち切ることができるものと考えられる。」とする千種裁判官の補足意見が付された。あくまで補足意見ではあるが、右のような理論構成による手続き打ち切りの可能性を肯定する見解にほかならない。このことは、本件における手続き打ち切りの可能性を論じるうえでも、重要な手がかりとなる。

千種補足意見では、回復可能性の判断につき、時間をかけた経過観察を行い慎重に判断すべきだとされ、これを支持する見解も有力に主張されている(*6)。しかし、前述のとおり、本件の経緯に照らして考えると、回復可能性を判定するためにさらなる経過観察が必要であるとは考えにくい。さらに、本件は、手続きの打ち切りを導くべき事情として、「訴訟能力が回復する見込み」の医学的な判断のみに焦点を絞って論じれば足りる事案ではないように思われる。すなわち、[1]本件が極めて長期にわたって係属していること、[2]その問、被告人は統合失調症の症状に自ら苦しみながら、もっぱら治療のための生活を続けていること、[3]訴訟能力の回復可能性について、さらに慎重に経過観察を続けるならば、訴訟が長期化するばかりでなく、そのことじたいが被告人の病状を悪化させかねないことなどをも合わせて複合的に斟酌するならば、(公訴事実が重罪であることを差し引いても)本件の訴訟を維持していてはもはや憲法三一条が保障するデュー・プロセスの要請を適えることができない状況にあるとして、三三八条四号による手続きの打ち切りを肯定することも可能と解すべきではなかろうか。本件のような事案においては、千種意見をさらに一歩進めて、訴訟能力の回復が困難であることは前提としつつも、回復が不可能であるとの「確定的な判断」まで要求する必要はないと考えるべきだろう。

公判手続きの停止と高田事件判決

最高裁は、高田事件判決において、[1]遅延の期間、[2]遅延の理由と原因、[3]利益の侵害状況などを総合的に考慮し、憲法違反の異常な事態が生じている場合に、免訴により手続きを打ち切るものとした。本件は、右で述べた訴訟能力の問題それじたいを離れて、現に生じている長期にわたる未済での係属という点のみによっても、免訴による打ち切りを論じることが可能な事案のはずである。

高田事件は、第一審の検察官立証段階で審理が事実上中断したまま、起訴から一五年が経過した事案である。本件は、起訴から三〇年と、実に二倍もの年月が経過しており、訴訟に要している期間という点では、圧倒的に「異常」といえる。ただし、高田事件判決やその後の判例は、遅延の期間のみによって一律に判断すべきではないとするので、他の要件についての検討が必要である。

公判手続停止決定後に経過した時間を「遅延」と評価し、停止決定後に訴訟能力が回復しなかったことを「遅延の理由」と位置づけることについては、議論の余地があるかもしれない。しかし、被告人の利益状況からみれば、停止決定があろうとなかろうと、刑事被告人という不安定な地位に置かれ続けていることに変わりはなく、本件と高田事件とで異なる評価をする合理性は乏しい。高田事件判決が遅延が正当化される理由として例示しているのは、事案が複雑なため審理に長期間を要した場合であるが、これと、被告人が実質的に審理に関与し得ない状況にあった本件とを同視することはできないだろう。

また、高田事件判決では、主たる「遅延の原因」が被告人の側にあった場合は、迅速な裁判を受ける権利を放棄したものと認めるべきだとする。本件は、訴訟能力の欠如が訴訟が長期化した直接の原因であり、被告人側の事情によるものといえなくもない。しかしながら、高田事件判決が例示している被告人の逃亡、出廷拒否と、被告人が患った精神障害とを同視すべきではない。精神障害により訴訟能力が欠如し回復しないことは、被告人に帰責できる事由ではありえない。また、当然ながら、本件においては、被告人が訴訟促進への積極的態度をとることも不可能であるから、いわゆる「要求法理」に類似するファクターが満たされないからといって、そのことから被告人の権利放棄を推定するなど消極的評価に結びつけることは、論理的に成り立ちえない(*7)。高田事件の判例理論は、その後の事件において、打ち切りを認める根拠としては機能せず、徒花に過ぎなかったとの評価さえある。しかし、本件は、高田事件判決の射程において「憲法的免訴」の可能性を論じることができ、裁判所による人権保障機能がふたたび発動されるべき事案なのである(*8)。

おわりに

奥深山事件の論点は、複雑でもあるが、単純でもある。統合失調症の治療生活を送っている被告人について、二一年の中断を経て、三〇年前から係属している事件の審理を再開しようとすることが、司法の実現すべき「正義」に適うのかどうか。デュー・プロセスの担い手である裁判所の判断に注目したい。

なお、近年、精神障害者と刑事司法の関わりについて、の議論が盛んである。そこでは、行為時の責任能力や触法精神障害者の処遇が中心的なトピックとなっている。しかし、それらを論じる前提である「犯罪事実(触法行為)の存在」を明らかにする手続きにおいて、精神障害者が、どのような基準で、どのような判断に晒されているのかにも目を配らなければ、全体としての方向性を見誤ることになりかねない(*9)。この意味でも、奥深山事件の経緯は、大きな問題の存在を示唆している。

(1) 松尾浩也『刑事訴訟法上[新版]』三一七頁一弘文堂(一九九九年)、高田昭正「訴訟能力」季刊刑事弁護三号一四四頁(一九九五年)など。なお、訴訟能力に関する論点を網羅的に検討するものとして、飯野海彦「刑事被告人の訴訟能力について」北海学園大学法学研究三五巻二号一九七頁(一九九九年)。

(2) 安村勉「判批」ジュリスト臨時増刊『平成一〇年度重要判例解説』一八七頁(一九九九年)。

(3) 長沼範良「判批」ジュリスト臨時増刊『平成七年度重要判例解説』一六三頁(一九九六年)、青木紀博「判批」判例評論四四八号(判例時報一五六一号)八〇頁(一九九六年)。

(4) 寺崎嘉博『訴訟条件論の再構成−公訴権濫用論の再生のために』(成文堂、一九九四年)。

(5) 指宿信『刑事手続打切りの研究−ポスト公訴権濫用論の展望』(日本評論社、一九九五年)、同「『公訴権濫用論』の現在と将来−裁判例の検討を通して−」井戸田侃先生古希祝賀『転換期の刑事法学』二五三頁(現代人文杜、一九九九年)。

(6) 木村烈「訴訟能力と刑事鑑定」中山義房判事退官記念『刑事裁判の理論と実務』四三頁(成文堂、一九九八年)など。

(7) 荒木伸怡『迅速な裁判を受ける権利』二五五頁(成文堂、一九九三年)。

(8) なお、京都地判平成八年一一月二八日(公刊物未登載)は、心神喪失による公判手続きの停止が二六年に及んだ事案について、迅速な裁判違反による免訴の主張を退けた。評釈として、指宿信「判批」法学セミナー五〇七号一〇八頁(一九九七年)。しかし、この判決の主文が責任無能力を理由とする無罪判決であったことに留意すべきである。すなわち、無罪による救済を意図した公判手続きの再開および実体判決であったことを(少なくとも背景事情として)読みとる必要がある。

(9) アメリカ合衆国の状況につき最近の研究として、横藤田誠『法廷のなかの精神疾患』一七〇頁(日本評論杜、二〇〇二年)。




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